第16回 ハイデガーは本当に性格が悪いのか?(4)
これまで本連載では三回にわたって、「ハイデガーは本当に性格が悪いのか?」という小論を掲載した。いい加減、しつこいと思われるかもしれないが、もう一回、このテーマで文章を書くことをお許し願いたい。 アリストテレス『形而上学』のオンライン読書会でいつもご一緒している哲学YouTuberネオ高等遊民(以下、ネオ氏と略)が最近、『ゆる古代ギリシア哲学入門―クセつよ逸話で学ぶ31人』(中公新書ラクレ、2025年)を上梓された。同書ではありきたりの哲学史の教科書のように、哲学者の学説が列挙されているわけではない。ネオ氏は哲学者たちの人となりを示す数々の逸話に注目する。そして「逸話は学説の象徴である」という考えのもと、そうした逸話に示された哲学者の生きざまと学説の内的な結びつきを示していく。このことによって、本書は一見すると無味乾燥な学説がわれわれの生にとってどのような意義をもつかを明らかにする。 古代ギリシアの哲学者たちに関する逸話はしばしば荒唐無稽なものを含み、そうでない逸話も歴史学的な実証に基づいて確定されたものではないから基本的にその真偽は疑わしい。実際、事実無根のものも多く混じっているだろう。だからといってそうした逸話が無意味だというわけではない。というのもネオ氏が同書の「はじめに」で述べているように、そうした逸話が忘れられずに伝わっているということは、その逸話がその哲学者の学説や本質を象徴していると見なされたことを示しているからである(同書、4頁以下)。 こうした見方に立脚して、ネオ氏は31人の哲学者について平易かつ明快な文章によって逸話と学説の関係を描き出していく。個々の哲学者の解釈については賛否があるかもしれないが、本書は全体として、意味がわかりにくい古代哲学者の学説をわれわれにとって身近なものにするという意図を見事に実現している(私はアナクシマンドロスの解釈がとくに気に入った)。 このように逸話に着目する手法はネオ氏自身が認めているように、クサカベクレスこと日下部吉信氏のやり方から着想を得たものである。日下部氏は『古代ギリシア哲学30講 人類の原初の思索から 上・下』(明石書店、2018年)において、古代ギリシア哲学史を「存在の思索」対「主観性原理」の対立抗争として描き出していた。この対立抗争は単なる学説上の対立にとどまらず、文字どおり血で血を洗う争いであり、それによって多くの哲学者が身を滅ぼさざるをえなかった。日下部氏は哲学者たちの逸話を手がかりにして、こうした対立の諸相を熱のこもった筆致であらわにしていくのである[1]。 哲学YouTuberとして活躍していたネオ氏が日下部氏のこの著作に注目し、クサカベクレスというあだ名をつけて激賞したことが日下部氏に伝わった。本人もこのあだ名をいたく気に入ったようで以後、クサカベクレスと自称するようになった。その後2023年9月から、クサカベクレスを講師とするアリストテレス『形而上学』のギリシア語原典の読書会が週一回のペースで開催されるようになった[2]。ネオ氏も自身が主宰されている読書サークルのメンバーとともに『形而上学』読書会に参加されており、以来ほぼ毎週、私と(オンライン上で)ご一緒している。 ネオ氏は『ゆる古代ギリシア哲学入門』のアリストテレスを扱った節で、アリストテレスが過去の哲学者たちを「曖昧」だとか「粗野」だとか徹底的に「バカにしている」ことや、彼のテクストの悪文ぶりを俎上に載せている。オンライン読書会でも、ネオ氏はこうしたアリストテレスの傲慢さや『形而上学』が講義ノートに由来するがゆえの文章の読みにくさに対してつねづね毒づいておられた。 アリストテレスは『形而上学』第1巻において、愛知=哲学の歴史を描き出している。そこでの過去の哲学者に対するスタンスは、彼が究極的な立場として自負する「四原因説」を基準として、先行者たちが四原因を捉えられていないことを指弾するといったものとなる。アリストテレスからすると、過去の哲学者たちの業績は素朴で拙いものにしか見えない。こうして彼らに対するアリストテレスの批評は、基本的にそれこそ「上から目線で」その未熟さをこき下ろすといったものとなる。 ネオ氏はアリストテレスのこうした態度に対して批判的である。というのも、ただひたすら諸存在の原因の探求という彼自身の個人的関心に沿って過去の哲学が参照されることにより、過去の哲学者たちの独自の狙いや意義が見失われてしまうからである(同書、229頁)。私もまったくそのとおりだと思う。そもそもこれまでの古代ギリシア哲学史の記述そのものが、こうしたアリストテレスの哲学史観によって陰に陽に規定されてきた。そう考えると、ネオ氏の著作は全体として、そのような哲学史観に囚われない古代ギリシア哲学の新たな見方を提示する試みにもなっている。 アリストテレスが『形而上学』で、師のプラトンやプラトン学徒を徹底的に批判していることはよく知られている。そうしたプラトン哲学に対するアリストテレスの批判を背景として、アリストテレスとプラトンの不仲を示す逸話がいろいろと残されている。ネオ氏はそうした逸話のなかでもとりわけ、年老いたプラトンに対するアリストテレスのいじめまがいの攻撃について詳しく報告している(同書、224頁)。 アリストテレスの老いた師に対する厳しい学問的批判、また逸話に示されているような狼藉は、本連載(第13回)で取り上げた師フッサールに対するハイデガーの無礼な態度を彷彿とさせる。ハイデガーはレーヴィットやヤスパースに宛てた手紙でフッサールの論文をこき下ろしていた。そこでハイデガーはフッサールを時代遅れの「老いぼれ」呼ばわりさえする。これを見れば、誰もがハイデガーは性格が悪いと思わないではいられないだろう。私もハイデガーのふるまいが公序良俗に反していないなどと言い張るつもりはない。しかし他方で私は、それを単にハイデガーの性格の悪さを示すものと捉えるだけでは一面的で、そこには両者ののっぴきならない哲学的対立が示されていることも強調したい。 これと同様に、アリストテレスのプラトンに対する厳しい批判も、単にアリストテレスの性格の悪さに帰してそれで終わりという問題でもない。もちろんネオ氏もアリストテレスとプラトンの哲学上の対立を無視しているわけではなく、その点にもちゃんと目配りをされている。ネオ氏はアリストテレスの原因の探求に示されているような学問の普遍性、公共性を追求する姿勢が、プラトン哲学の「魂への配慮」といったような内面的なもの、私的なものを重視する側面とうまく折り合わなかったのだろうと解釈している(同書、230頁以下)。クサカベクレスであれば、両者の対立のうちに、イオニア自然哲学に体現されているピュシス原理とピュタゴラス派に端を発する主観性原理の相克を見て取ることであろう。 アリストテレスは『形而上学』第1巻で、プラトンの学説に対して二十三か条にわたる批判を展開している。オンライン読書会でネオ氏やクサカベクレスとその箇所を一緒に読んでいて思ったのは、アリストテレスの批判がある意味、きわめて常識的で単純な直観に基づいているということだった。つまり個物が眼前に現れてくるということが「存在する」ことのもっとも基本的な意味であり、そうした場面を離れて何かが「存在する」と語ることは意味をなさないという直観である。プラトンのように、イデアが個物から「離れて」「存在する」というのは、今述べたような「存在」の原義に照らしてみると、まったく無意味な語りだということになる。というのも、そもそもその場合、「存在する」とは何を意味するかが明らかでない。逆にその際、「存在する」ということがなお意味ある仕方で語られているとすれば、イデアは結局、個物のように存在しているのと変わらないことになるからである。 プラトンのように個物から「離れた」イデアの存在を認めるということは、感覚的世界とは異なるイデア的世界の存立を認めることを意味する。このイデア界は要するに、感覚的世界とは区別される観念的、内面的な世界を指している。そして今日のわれわれはこうした領域を「意識」、「主観」、「精神」として引き継いでいるのである。したがってアリストテレスが個物から「離れた」イデアの存在を否定するとき、そのことによって彼は感覚的世界から切り離された内面的世界の存立も否定していることになる。彼にとっては、われわれの目の前に開かれた、事物が生成消滅する世界の実在は疑いえないものであって、それとは別の世界を想定することは無意味でしかない。 ハイデガーとフッサールの哲学的な対立も、今述べたようなアリストテレスとプラトンの対立をそのまま反復したものと見なすことができる。フッサールは周知のとおり、現象学の創始者である。現象学とは文字どおり「現象」を記述する学である。そうした現象が意識における現れであることは彼にとって自明のことだった。こうしてフッサール的には、現象学は意識体験の記述を意味することになる。 これに対してハイデガーは現象学を、世界を現れるがままに記述する方法として受け入れた。つまり彼にとって現象とは、この世界において存在者が立ち現れることそのものを意味していた。存在者が立ち現れるとは、その存在者が「存在する」ことにほかならない。それゆえこうした意味での現象を記述することは、存在者の「存在」を記述することとなる。『存在と時間』において、現象学が存在者の存在についての学、すなわち存在論であるとされる所以である[3]。 以上で見たように、ハイデガーはそこにおいて存在者が立ち現れてくる世界とは別に、意識のような内面的な領域が存立することは一切認めない。西洋哲学の伝統において、人間は意識のような主観的な領域をもちつつ、客観的な世界に向かい合う存在者として描かれてきた。ハイデガーはそうした伝統的な人間観を根本から否定する。彼は人間をまったく内面性を欠いた存在者として捉える。つまり人間をそこにおいて存在者が立ち現れる世界のうちへと出で立ち、そうした世界に晒し出されている存在者として捉え直すのである。 ハイデガーが1920年代前半にアリストテレスの解釈に熱心に取り組んだことはよく知られている。『存在と時間』ももとをたどれば「アリストテレスの現象学的解釈」と題された論文として書き始められたのだった。ハイデガーは主観性、意識の閉域から脱し、哲学をこの世界そのものの有りようを語ることへと転回させようとしていた。このように、そこにおいて存在者が立ち現れる“Da”――すなわち「そこ」、「現」――を直接的に主題化する方法を模索するなかで、彼はアリストテレスをそうした試みの先駆者として位置づけていたのである。 現象学を意識の内面へと閉ざしてしまったフッサールに対するハイデガーの批判は、生成変化する現実世界から目を背け、観念的世界へと飛翔するプラトンに対するアリストテレスの批判と重なりあっている。ハイデガーは『存在と時間』や同時期の講義においてフッサールやシェーラーを念頭に置いて、彼らが語る主観、意識、精神、人格などについて、それらの存在が問われていないと非難している[4]。こうした苦情は、イデアが個物から離れて存在すると言うとき、その存在の意味が明らかではないというアリストテレスのプラトン批判を想起させる。ハイデガーはアリストテレスに倣って、イデアという観念的なものを受容する領域としての意識の存立を認めず、この世界の実在の自明性へと立ち返ろうとしていたのである。 こうして私としては、自分の師に対して陰で罵詈雑言を浴びせるというハイデガーの「クセつよ逸話」も、あくまで今述べたような存在論的立場の根本的な対立、すなわちハイデガーが『存在と時間』の序論で引用しているような「存在をめぐる巨人の争い」の表出として読み解きたいと思うのである。 [1] 同書については、私もかつて書評を寄稿したことがある。拙稿「ギリシア哲学史の見直しを迫る異端の書――従来のギリシア哲学史観を覆し、「存在」を問い直す」『図書新聞』第3389号、2019年3月2日。 [2] このオンライン講座は受講料を支払えば一般の参加も可能である(ただしアリストテレスの難解な古典ギリシア語を読解する覚悟は必要である)。以下に案内のリンクを張っておく。https://www.timehill.net/philosophy.html [3] Martin Heidegger, Sein und Zeit, Tübingen, 2006, S. 37. [4] Ibid., S. 46. 轟 孝夫 経歴 1968年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
現在、防衛大学校人文社会科学群人間文化学科教授。
専門はハイデガー哲学、現象学、近代日本哲学。
著書に『存在と共同—ハイデガー哲学の構造と展開』(法政大学出版局、2007)、『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書、2017)、『ハイデガーの超‐政治—ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い』(明石書店、2020)、『ハイデガーの哲学—『存在と時間』から後期の思索まで』(講談社現代新書、2023)などがある。
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