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第14回 「高天原三征」大作戦

 250年前後に卑弥呼の後継に台与が立つと、間もなく狗奴国との戦争に勝利しました。そして、魏への朝貢を復活させ、その際に張政を帯方郡まで見送って、邪馬台国は安定した時代を迎えました。しかし、残念ながら魏志倭人伝はここで突然終わってしまいます。これは、張政を帰還させたことにより、邪馬台国の情報が魏へ届かなくなったためでしょう。また、中国王朝が魏から西晋(せいしん)に代わったのは265年なので、250年代の魏は邪馬台国支援どころでは無くなってきたためでもあるでしょう。

 それでも邪馬台国はその後どうなったか知りたくなります。ここで威力を発揮するのが魏志倭人伝とおおよその双対性(そうついせい)のある記紀神話なのです。これまで魏志倭人伝の邪馬台国と、記紀の高天原との類似性をたくさん紹介してきたのは、記紀神話には邪馬台国の「その後」も記されていると考えることに合理性があると皆さんに納得していただくためでもありました。

 記紀神話の粗探しをして、あれも作り話、これも作り話として捨て去ることが学問だと勘違いしているエライ文献学者が多く、そもそも記紀を一度も読んでいないらしいエライ考古学者も多いのです。古典と呼ばれる本であっても批判的に読むことは必要でしょうが、それが行き過ぎると古典の真価が損なわれます。どこの国だって自国の歴史書を作り話としてゴミ箱に捨ててしまったら謎が深まるのは当たり前です。第8回に書いたとおり、記紀は天皇を中心として記されてはいますが、紫式部の源氏物語に民主主義や男女平等を求めないのと同じ態度で読めばいいのです。古代人をリスペクトして、古代人が後世に伝えたかった切なる思いに耳を傾けることが大切なのです。記紀神話から学ぶべきは、軍部が戦争遂行に悪用した皇国史観ではなく、記紀実話としての日本の古代史なのです。記紀を読み解くことで日本の古代史はくっきりと焦点を結び、「謎の3世紀、謎の4世紀」は雲散霧消するのです。記紀は、知りたがり屋の猿(私のことです)の願いを叶えてくれるのです。

 最近読んだ本の中で、参考文献を大切に扱っていると感じた一冊が、木下謙次郎による伝説のベストセラーの復刻版『現代語訳 美味求真』(傍流堂)です。この本は、記紀や風土記、万葉集、先代旧事本紀、筑前国続風土記などに加え、近世の著作も含む300を超える文献を丹念に踏まえながら、「食文化から見る人の生」を追求している大作です。近代日本医学の父として知られる北里柴三郎は序文において、「著者の趣味はまことに広く、古今東西の文献を渉猟して、政治、文芸、博物、地理、歴史、生理学に至るまで、分野を選ばず、最近の栄養学説までも俎上に載せて論じている」と評しています。その言葉どおり、参考文献を尊重し、それらと誠実に向き合う姿勢は、記紀などの資料から日本の古代史を読み解くうえでも大きな示唆を与えてくれるものだと感じました。

 さて、私が最初に知りたいことは、天照大御神が天の石屋戸から復活した直後の高天原がどうなったかなのですが、残念ながら記紀の舞台は高天原から出雲に移ってしまうのです。特に古事記では高天原から追放された須佐之男命の説話が延々と続くのです。日本書紀も同様ですが古事記よりは手短に記されています。そして須佐之男命の説話が終わったかと思うと、次には出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)の説話が延々と続くのです。そして忘れた頃に(知りたがり屋の猿が忘れるはずはないのですが)、高天原の高御産巣日神と復活した天照大御神(台与)の二神が久しぶりに登場し、出雲国を高天原へ国譲り(くにゆずり)させる説話に移るのです。国譲りに当たってはまず、天之菩卑命(あめのほひのみこと)を高天原から出雲へ天降りさせました。天之菩卑命は短期間で出雲を屈服させられなかったため、天若日子(あめのわかひこ)や、女スパイ(くのいち)かと思われる天探女(あめのさぐめ)、建御雷之男神(たけみかづちの おのかみ)などを次々と送り込みました。そして何年かかけてやっと国譲りが達成されるまで説話は続くのです。

 そこまで説話が進むと、またまた久しぶりに高天原の高御産巣日神と復活した天照大御神(台与)の二神が登場し、やっとのことで舞台は出雲から九州へ戻り、高天原から南部九州の高千穂(たかちほ)へ天津彦彦火邇邇芸命(あまつひこひこ ほの ににぎのみこと:略称、邇邇芸命)を天降りさせる説話になります。また、記紀を読み進めて行った後に分かるのですが、(高千穂へ天降りした邇邇芸命の兄の)天火明櫛玉邇芸速日命(あめの ほあかり くしだまの にぎはやひのみこと:略称、邇芸速日命)は奈良へ天降りさせています。

 出雲と南部九州への天降りは共に高御産巣日神と復活した天照大御神(台与)の二神の命令で行われ、奈良への天下りは邇邇芸命の兄の邇芸速日命を天降りさせていることから、出雲と南部九州と奈良への天降りは同時期の出来事と考えられます。三地域への天降りを並行して遂行できるほど高天原は繁栄したのです。この三地域への天降りを「高天原三征(たかまのはら さんせい)」大作戦と呼ぶことにします。

 多くの学者が「高天原三征」をそれぞれ関連のない天降りと解釈していて、特に出雲神話は後から記紀に挿入されたと考える学者もいる程です。しかしこれらの天降りが密接に関連していると捉えることにより、天津神も国津神も生き生きと動き出すのです。そして、「高天原三征」の視点こそ邪馬台国がその後どうなったかを解く肝(きも)になるのです。

 南部九州や奈良への天降りは、北部九州の高天原(邪馬台国)を離れて都を遷した(南遷した、東遷した)と捉える学者が多いのですが、あくまでも北部九州に勢力を残しながらの領土拡大であり、言わば「日本統一」を目指した動きです。そもそも、狗奴国に勝利したので外敵に攻められたわけでもなく、内部分裂した様子も見られないのに、高天原の発祥地(本拠地)を捨てる理由はないのです。高御産巣日神(高木神)と天忍穂耳命(夫)と万幡豊秋津師比売命(妻)とは、留守番役として北部九州を治めることに専念し、次世代を天降りさせたのです。その証拠として、北部九州には2~3世紀前半のたくさんの遺跡に続いて、3世紀後半から4世紀にかけても初期前方後円墳などを含む遺跡がたくさん存在していて、繁栄が続いていることが分かります。初期前方後円墳などの遺跡については後の回で紹介します。また、第10回に書いたとおり、天忍穂耳命は豊の国にある福岡県添田町の英彦山(ひこさん)神宮に祀られており、周囲を高木神社が幾重にも取り囲んで護っており、万幡豊秋津師比売命(台与)は豊の国の女王として宇佐神宮に祀られていることとも整合が取れています。

 三地域にわたる邪馬台国による「高天原三征」大作戦をいちどきに紹介することはできませんので、記紀の順を少し変えて、私が最初に知りたい南部九州への天降りを取り上げ、次に出雲に移り、最後に奈良へと進めたいと思います。まず、南部九州への天降りのあらすじを紹介します。

 【 天忍穂耳命と万幡豊秋津師比売命との間には長男の天火明命(あめの ほあかりのみこと)と、次男の天津彦彦火邇邇芸命が生まれた。高御産巣日神(高木神)と復活した天照大御神は、南部九州への天降りを天忍穂耳命に命じた。しかし、天忍穂耳命は自身の代わりに次男の邇邇芸命を天降りさせたいと二神に進言して認められた。邇邇芸命の天降りには八咫鏡(やたのかがみ)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の三種の神器を携行させた。特に八咫鏡は「天照大御神の御魂として祀(まつ)れ」と申し添えた。邇邇芸命は、天宇受売命(あめのうずめのみこと)や、石の鋳型で鏡造りをする石凝姥命(いしこりどめのみこと)、玉造りの玉祖命(たまのおやのみこと)などの神々を帯同させ、国津神である猿田彦神(さるたひこのかみ)を先導役として「筑紫の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の久士布流多気(くしふるだけ)」に天降った。

 邇邇芸命は「ここは韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬へ真っすぐ通じている良き所であると」述べ、太い宮柱を持ち、天高く千木(ちぎ)を掲げた宮殿に住んだ。邇邇芸命は、笠沙の岬で木花佐久夜比売命(このはな さくやひめのみこと)に出会った。この二神が結婚し火遠理命(ほおりのみこと)が産まれた。邇邇芸命が亡くなると可愛之山陵(えの みささぎ)に葬った。

 火遠理命は成人になると豊玉比売命(とよたまひめのみこと)と結婚した。豊玉比売が妊娠して子を産む時に、鵜の羽を葺草(かや)にして産屋を造ったが、産屋の屋根の葺草がまだ葺不合(ふきあえぬ)うちに子が産まれた。そこでこの御子を鵜葺草葺不合命(うがや ふきあえずのみこと)と命名した。火遠理命が亡くなると高千穂の山の西にある高屋山上陵(たかやの やまのうえの みささぎ)に葬った。

 鵜葺草葺不合命は、母(豊玉比売命)の妹の玉依比売命(たまよりひめのみこと:叔母)と結婚して神倭伊波礼毘古命(かんやまと いわれひこ:後の神武天皇)を産んだ。鵜葺草葺不合命が亡くなると吾平山上陵(あひらの やまのうえの みささぎ)に葬った。 】

 邇邇芸命が天降った高千穂のクシフル岳はどの山なのか、邇邇芸命からの三代に渡る宮殿や御陵はどこにあったのか、という議論が「高天原論争」に続く「高千穂論争」です。安本美典氏の『邪馬台国はその後どうなったか』(廣済堂出版)は500ページ余りもある本で、高千穂論争の諸説を詳しく紹介しています。この本によると、高千穂論争は第二次世界大戦前にはとても盛んだったそうですが、戦後は一転して1992年にこの本が出版されるまでは一冊も出版されなかったそうです。これは軍部による皇国史観により歴史書としての価値が損なわれてしまったせいでしょう。しかし、この風潮を引きずるのではなく、記紀実話として読み直す切り換えが必要なのです。

 南部九州への天降りについては、記紀と安本氏の本とを頼りに私の理解したことにより話を進めていきます。まず、天忍穂耳命は南部九州への天降りを、高御産巣日神と復活した天照大御神すなわち万幡豊秋津師比売命(台与)に命じられました。つまり、義父と妻から夫に天降りが命じられたのです。この命令に対して天忍穂耳命は御子の邇邇芸命を天降りさせました。

 邇邇芸命は高天原の伝統である八咫鏡と草薙剣と八尺瓊勾玉の三種の神器を携えて、天宇受売命や石凝姥命、玉祖命など天の岩屋戸事件で活躍した神々を帯同させて「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」に天降りました。八咫鏡は「天照大御神の御魂として祀(まつ)れ」と言われて渡されました。太陽光を反射する八咫鏡の別名は「日像鏡(ひかたのかがみ)」であり、太陽神である天照大御神の分身でした。八咫鏡は考古学用語では内行花文鏡であると言われていますが、高天原ではこの模様は「花文」ではなく「太陽の輝き」と捉えていたことがわかります。

 クシフル岳は、奇し(くすし)と言う霊威ある山岳を意味すると思います。高千穂論争におけるクシフル岳の候補地の一つは、宮崎県西臼杵郡高千穂町の高千穂峡です。夜神楽(よかぐら)で有名な高千穂神社があり、祭神は高千穂皇神です。槵觸(くしふる)神社もあり、祭神は邇邇芸命です。その他、この地には高天原や天安河原、天香久山、天真名井(高天原の井戸)、天岩戸神社など、天降る前の地名も揃っていて、しかも記紀にあるそのままの漢字で残っています。これらの地名は、大元である筑紫平野にも福岡平野にも残っておらず、天香久山ですら香山(こうやま)または高山(こうやま)に漢字が変わっています。このため、高千穂峡にある地名は後世の人がまとめて名付けたように私は見ています。つまり、高千穂峡が高千穂になったのは後付けだと思うのです。ただし、高千穂峡は根も葉も無い後付けではなく、さらに南進するための通過点、前進基地だったという伝承が元々あった可能性はあります。

 高千穂峡がクシフル岳では無いとすると、もう一つの候補地である霧島山が有力となります。霧島山は鹿児島と宮崎の県境にあり、主峰の韓国岳(からくにだけ:1700m)や高千穂峰(たかちほのみね:1574m)などの山々から成る連山です。2025年にも新燃岳(しんもえだけ:1421m)が噴火するなど活発な火山活動が続いています。霧島連山の南西麓には邇邇芸命が主祭神になっている霧島神宮が鎮座し、南東麓には都城盆地が広がります。「ここは韓国に向かい」は韓国岳のことでしょう。

 笠沙(かささ)の岬は鹿児島県南さつま市にある野間半島(野間岬)が有力視されています。南さつま市の隣にある加世田市が笠沙の音韻に似ています。かつて野間半島には笠沙町がありましたが、笠沙町は大正時代に名付けられた町名であり、市町合併により今は残っていません。

 邇邇芸命の宮殿は、野間岬の北の鹿児島県薩摩川内市(さつませんだいし)宮内(みやうち)にある亀山が有力です。亀山は平地にある低い丘で、横から見ると亀の形をしていて、新田神社が鎮座しています。新田神社の主祭神は邇邇芸命で、その他に祖母の天照大御神、父の天忍穂耳命、母の万幡豊秋津師比売命も祭神になっています。記紀にあるとおり新田神社は、太い宮柱を持ち、天高く千木を掲げています。そして、新田神社の本殿の裏には邇邇芸命の墓とされる可愛山陵(えの さんりょう)があります。

 次の世代の火遠理命の宮殿は鹿児島県霧島市隼人町にある鹿児島神宮が有力視されていて、祭神は火遠理命と妻の豊玉比売命です。火遠理命の墓である高屋山上陵は鹿児島県霧島市溝辺町にあり、少し離れてはいますが古事記のとおり高千穂の山の西に位置しています。

 鵜葺草葺不合命の宮殿については記紀にはっきりとは書かれていないのですが、佐土原ナスで有名な宮崎県宮崎市佐土原にあったという説が有力です。鵜葺草葺不合命は玉依比売命と結婚して神倭伊波礼毘古命を産みました。宮崎県日南市には鵜戸神宮があり主祭神は鵜葺草葺不合命です。鵜葺草葺不合命の墓は鹿児島県鹿屋市吾平町にある吾平山上陵とされています。

 神倭伊波礼毘古命は後の初代天皇である神武天皇で、宮崎市の宮崎神宮の主祭神は神倭伊波礼毘古命です。このように南部九州へ天降った邇邇芸命からの日向三代(ひむか さんだい)の宮殿や山稜と神倭伊波礼毘古命の宮殿は、鹿児島県の西端から次第に東へと遷り進み、神倭伊波礼毘古命に至って宮崎市の東端に達しています。次回は日向三代にかかわる不思議な話や出土品などについて取り上げます。


高橋 永寿(たかはし えいじゅ)

1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。邪馬台国の会会員。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。

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