最終回 きちんと生きる
極寒の1月下旬、体を温めるためとの大義名分があるだけにお酒の量は一段と多くなりがちで、そうすると睡魔の猛威も一段と激しさを増す。お風呂に入る気力はとうになくなり、汚れた体のまま布団に潜り込んでしまう。脱衣所と湯船の温度はかなり違うので心筋梗塞を起こす可能性がある…これがもう一つの大義名分。翌朝、朝食の支度に没頭するあまり、妻からの「おはよう」を無視してしまう。近くのコーヒーショップへの道中、青信号になる前から横断し始める。2時間以上も滞在するのに一番安いコーヒーを注文し、家から持参してきたクッキーを店員さんに見つからないようこっそりと食べる。ペット不可の我がマンション9階、やけに大きな犬が廊下をうろついていたので、下界へ落っことす。馬券を買い過ぎて貯金が尽き、資金提供を断った姉の自宅に灯油を放ち、夫ともども焼き殺す。その後、日本中を逃げ回り、時効成立となった途端、自身が肺がんに侵されていることを知り、もはや命これまで。京福電鉄嵐山本線蚕ノ社駅のホームから飛び込んで列車の下敷きに… 人間は誰しもが様々な罪を犯し、様々な不幸が訪れる。自分のせいとも言えるし、他人のせいとも言える。生老病死。この世に生まれてきたことが不幸の始まりであり、老いは確実に進行し、病から逃げることはできず、やがては死に至る。仕事や家庭の問題は言わずもがな、僕の一日を振り返ってみるだけで、数え切れないほどの不備、失敗を繰り返していることに気付く。人生は一切皆苦。もちろん、犬との遭遇以降は妄想であるが、きちんと生きているとは到底、言えない。それでもなお、きちんと生きたいという思いはある。改めて言葉にすると恥ずかしさを伴うが、実際、甚大なる社会的な罪を犯した者ですら「きちんと生きたい」…それは「正しさを貫きたい」でもいいし、「正道を歩みたい」でもいい、とにかく倫理的に生きたい、倫理的に生きたかったという思いは残るのではないか。思考回路が破綻していない限り。何はともあれ全世界が幸福の一色に染まる状況は果てしなく遠い。そう言えるだろう。 ――――― 「倫理とは、一言でいえば「人として守るべき行動規範」であり、まさに日々をどう生きるのかに直結する」(1ページ)と始まる頼住光子の『日本倫理思想の考え方』(山川出版社、2025年)は日本人の世界観、人間観を探る書である。有史以来、人類は様々な価値観に出会い、驚き、そしてぶつかり合う時代に突入した今、どのような生き方が求められるのか。どのような社会体制が望ましいのか。それらに唯一の正解、最適解はあるのか。地球規模での自然環境悪化に、加速する分断、排除の現代社会…今後のあり方、新たなるあり方を見い出すことは世界中の人々にとって喫緊の課題となった。 ここでひとまず日本という国に限定し、その国に住まう人々にとって良い生き方とはいかなるものだったのかと、そんな問い直し作業を行うことは有意義な試みだろう。「長年に渡って日本人の倫理観を育んできた代表的な宗教、すなわち、原型となった古代の神々への信仰や儀礼、外来の宗教でありながら日本人の血肉となった仏教や儒教、さらに仏教の刺激によって土着の神々への信仰を自覚し意識化することによって成立した神道を取り上げて、それらが日本人の伝統的な倫理観の形成にどのような役割を果たしたのか、また現在の日本人の倫理観にどのような影響を与えているのかについて検討したい」(同書5ページ)と宣言し、まずは水先案内人として取り上げたのが折口信夫。日本人の心の基層…伝統的超越観、霊魂観を探求し続けた民俗学の第一人者が考える「古代」とは、「日本人にとっての「心の原型」、「世界の原像」であり、民族の生活の底流をなす知恵や心意である。だからこそ、その後のあらゆる時間にその「原型」が陰に陽に影響を及ぼす」(同書20ページ)。そう、折口の直観、実感、思索を受け継ぎ、より繊細に学術的検証を行っているのが頼住であり、今後より一層、難しい時代を生きていく次世代へ向けて、神がかり的な編集力と簡潔かつ豊潤な文体で記したのが同書。もちろん、ここを起点として答えを見い出していくのは我々だが、この書物がなければ随分と遠回りをすることになったかもしれない。 「折口の考える古代の信仰のうちで最も中核をなすのは、「まれびと」に対する信仰である。漢字では「客人」と書く「まれびと」とは、共同体の外部である「とこよ」(=常世)から、時を定めてやってくる神霊で、共同体の人々に、祝福を与え共同体の繁栄を実現させる存在である」(同書20ページ) これが日本人の神観念の基盤だという。さまざまな制約のもとで生きざるを得ない(=有限的な)人間が無限的な世界に憧れるのは別段、日本人に特有のものではないが、「まれびと」の出現地が一つだけではないのは特徴的と言えるだろう。「南方から来た日本人の祖先たちは、当初海沿いに住みつき、海の彼方の「常世」から神霊が訪れると考えていたが、海から内陸部へと生活の場を移動させるにつれて、神霊がそこからやってくる場所、すなわち「異世界」(他界)に対する考え方が変わっていったとする。つまり、内陸に住みついた人々にとって、他界は、海の彼方の「常世」から、山の彼方や天上に変わっていったというのである」(同書27ページ)。 昨年、僕が訪れた奈良の三輪山がまさにそうだ。奈良盆地の中でひときわ目立つ美しい円錐形の山。弥生人はとかく、この手の山を好む。好むというか、神が宿る場所としてふさわしいと多くの人がピンと来るのだ。 ここで留意しなければならないのは、異世界からの来訪者は必ずしも豊穣や繁栄をもたらすわけではないということ。「とこよ」とは「常夜」でもあり、つまり、超越的存在とは「自己にとって常に異物である。その見通せない異物であるということを凝縮すると、それは人間の生を脅かす死の国ということになろう~それ故に、共同体は祭祀を通じて超越的なるもの、絶対的に他なるものを馴致しようとするのである」(同書26ページ)。 三輪山、すなわち大神神社で神を招き、宴を行い、そうして神はもといた場所に戻っていく。「在り処が大きく変わっても、他界から来訪する神に対する「まつり」の基本的な構造は変わらない」(同書27ページ)と述べるように、遥か彼方の異界(ニライカナイ)からやって来た神を祀る沖縄民もヤマト民の心性と構造的には何ら違いはない。違いがあるとすれば、神が宿るための目印となるもの、三輪山ならば磐座であり、沖縄の「まやの神」ならば蒲葵(くぼ)の葉で作られた蓑だ。「このような神が依り付く人間や物を、折口は「依代(よりしろ)」と呼び、依代を設置することは、「まつり」の大切な支度であった」(同書28ページ)。また、折口は、遠い常世からやってきた神は自分の来歴を語り、村落の未来を予祝するのが通例であり、この一人称の語りが文学や芸能の原型であるばかりか、人間すべての活動がこのような神と人(=共同体)の関係を基盤にして展開されていると考えた。 さて、本筋に戻り、頼住はこう疑問を投げ掛ける。「「今」「ここ」に制約されているが故に、「今」でも「ここ」でもない彼方に憧れ、その彼方との関係において自己を確定しようとする素朴な超越感覚」(同書30ページ)が「仏教や儒教などの高度に体系化された教義と出会った時に何か起こったのか」(同) ――――― 仏教初伝は552年。当初は日本固有の神信仰と外来宗教の仏教とは葛藤がみられたが、すぐに対立的関係は解消され、いわゆる「神仏習合」は明治元年(1868年)の廃仏毀釈まで融和的関係が保たれてきた。「これを可能にした仏教側の要因としては、仏教が、唯一絶対者を立てず、真実に至る一方便として異教も寛容に許容する傾向が強かったこと、神道側の要因としては、神道のこの世の福利を求める現世主義的な側面が、当時の仏教の中にあった呪術的側面と共鳴したことが挙げられる」(同書168ページ)。その後、本地垂迹説の後押しを受けて千年以上に渡って続いてきた神仏習合だが、もう一つ見逃せないのが最澄の取り組みだ。 「比叡山に延暦寺を建立した際には、最澄が留学した中国天台山国清寺で守護神として道教の神仙「山王元弼真君」(中国の周の霊王の王子晋の神格化)が祀られていたことにならって、前述の大山昨神をはじめとする日吉大社の神々を、天台宗や延暦寺を守る護法神とした。また、山王元弼真君に因んで、天台宗の護法神は山王と呼ばれるようになった。このように、最澄は天台宗と併せて神仏習合をも中国から学んできたのである。これ以降、山王社、日吉(日枝)社は、天台宗の隆盛とともに全国に広がり、鎌倉時代には、仏教優位の神仏習合思想に基づく山王神道が発展し、真言宗の両部神道と並んで中世の代表的な神道説となったのである」(同書50ページ) これ以降、法然、道元などの「鎌倉仏教」の祖師たちを取り上げ、さらには儒教や道教の影響も鑑みながら日本思想の眺望を鮮明化していく。その過程で僕が啓示を受けた箇所を取り上げていきたい。 これまで最澄の弟子的存在=追随者が多く存在したことは知られているが、一方の雄、空海はとんと聞かない。これはなぜか。頼住はこう説明する。最澄が日本に天台、密教、禅、戒律を伝えたことを「四種相承(ししゅそうじょう)」(円・密・全・戎)というが、「その体系的完成度の高さ故に、空海以後、大きな教学的展開がなかった真言宗に比べて、最澄が「四種相承」の上で総合的仏教を目指しつつも、教学の体系化が叶わなかった天台宗の方は、その後、源信、法然、親鸞、道元、日蓮などさまざまな祖師が比叡山に登り、その学問的伝統を母胎として自らの独自の仏教を切り拓いていた」(同書43ページ) 極端な話で申し訳ないが、サラブレッド世界も同じ事が言える。ケチの付けようがない完璧な血統構成の超一流馬は子孫が途切れがちで、逆に完璧ではない配合の並みの一流馬のほうが優秀な子を多く輩出するのだ。十全十美は一代限り。最澄は思想的最盛期を他宗との論争の中に過ごすはめとなってしまい、記したものといえば論争の書ばかり。とはいえ、そうであるからこそ結果的に、後続の者たち…つまり源信、親鸞、道元などの深い思索を体系化した著作が世に放たれたのだからやはり最澄の威光は空海に優るとも劣らない。文学や哲学と同じく、仏教もまた歴史なのである。 「鎌倉仏教」についてはいまだに議論の俎上に載せられるが(当時はあくまで周縁的なものであり、社会に大きく影響を持つようになったのは戦国時代以降)、頼住は「鎌倉仏教の祖師たちの多くがその青年時代に学んだ比叡山の天台宗が「円(天台)・密(台密)・禅・戒」の四種相承に基づく総合的な仏教であったのに対して、鎌倉仏教の祖師たちのうち、法然、親鸞、一遍らは念仏を、道元は座禅を、日蓮は『法華経』の題目をと選択(せんちゃく)を行い、それに基づいて、自らの実践と思想とを確立した」(同書54ページ)と肯定的な意見でまとめられており、日本仏教が細分化したことは喜ばしいことばかりではないにせよ、仏教が庶民に開かれた信仰となる契機となった点は評価しなければなるまい。 その祖師たちの中で、僕を魅了してやまないのが道元。西洋の哲学者(ハイデガー、スピノザなど)と対比されることも少なくないが、道元の深い洞察力と類まれなレトリックは古さを感じないどころか、いまもって先鋭的だ。この道元の研究者として知られる頼住はやはり彼への言及を忘れることは決してない。 「『正法眼蔵』「行持(ぎょうじ)」巻冒頭では、「行持道環」(修行の連続性)について、修行が切り拓く三つの連続性について述べている。それは、自己の修行と悟りが連続し(修証一等)、修行する自己と世界の全存在とが連続し、自己と諸祖(禅の祖師たち)が連続するというものである。このような連続性の故に、自己が悟る時は世界もまた悟るし、諸祖も悟るのだと道元は説く。この時、自分に先立つ仏祖が自己を基礎付け、また自己が仏祖を基礎付けるという表現において、時間は、通常のように過去→現在→未来と一方向に流れていく直線ではなくなる。全時間が、修行する「今」(=悟りの今である有時)とつながり、その「今」を支えるものになると同時に、修行する自分の「今」があらゆる時間を支えていくのである」(同書64ページ) 鎌倉仏教の祖師たちの中で最も仏教の根本(インド哲学)に立ち返って世界を見つめたのが道元。ラディカルなのはこの時間論だけではなく、それこそ正法眼蔵には無数の知が散りばめられている。 余談だが、昨年暮れから住み始めたマンションのすぐ近くに道元の示寂(じじゃく)の地がある。京都で生まれ、比叡山で出家し、建仁寺を経て入宋。帰国後は深草で教化活動を行い、晩年は権勢を逃れ、越前に向かい、永平寺を建てた。その後、療養のため上洛し、ここ堀川高辻の弟子の屋敷で生涯を閉じたのである。彼の終わりの場所が僕にとって始まりの場所。これも何かの縁か。ここできちんとした日々を過ごし、きちんとした思想を打ち立てたいものである。 仏教のページで立ち止まりし過ぎたか。そろそろ次へ向かおう。頼住は「人間とは孤立して存在するものではなくて、つながりの中で自らを形成し、他者をも形成する縁起的存在であると捉える」(同書79ページ)のが仏教思想であり、「環境問題をはじめとする現代社会のさまざまな問題の解決のためには、個の独立と主体性を第一とする人間中心主義や、世界を理性によって支配することをよしとする理性主義とは違う新たな人間観や世界観を、一人一人の人間が模索する必要があるだろう。その模索のために仏教がこれまで拓いてきた思惟方法は大きな示唆を与えるものといえよう」(同書80ページ)と締める。 ――――― 儒教は仏教公伝より100年以上も前。しかし、儒教は基本的には学問に留まる場合がほとんどであり、日本では中国ほどには強い影響力を持たなかった。これもひとえに「日本では中国のような科挙(儒教経典の暗記と理解が必須)が行われず、科挙官僚を輩出した士大夫層のような、儒教を担う社会的基盤が育たなかった」(同書86ページ)から。そもそも「中国儒教が、父系の同族集団であり外婚制(同性不婚)をとる宗教社会を前提として成り立っているのとは違って、日本の家制度においては、非血縁の養子も容認されるなど、儒教が前提とする社会も日中では大きく違っていた」(同書87ページ)のであり、「皇帝の権力の源泉を天命に求め、易姓革命、つまり、徳の有無により皇帝の家筋が変わることを容認する儒教の考え方は、徳の有無よりも万世一系の血筋を天皇の権威の源泉とする日本の天皇制のあり方とは相容れないものであった」(同書87ページ)と説明するが、江戸時代には朱子学が学問の主流を占め、明治時代には教育勅語が公益の観念を育てた。日本人の心性にある程度の痕跡を残したのは間違いなく、「行き過ぎた個人主義が家族の崩壊の危機を招いている現在、儒教の持つ、個人を超えたつながりや生命に対する感覚が私たちに与える示唆は、決して少なくないといえるだろう」(同書120ページ)との指摘には首肯しなければなるまい。 ――――― かねて神道は難しいというか、時代によって社会層によって意味合いや取り組み方が違っており、今一つ整理できないでいたが、ここでも頼住は「神社神道、民俗神道が実践中心のものであるのに対して、中世に盛んになった仏家神道、近世の儒家神道、復古神道などは、教説を中心とした神道で、一定の提唱者と体系的教義、聖典を持っており、理論神道と呼ばれている~祭祀が執り行われる場所によって分類すると、皇室神道、神社神道、家庭神道などに分けられる」(同書126ページ)と手際良く解体し、以後はそれらの特徴をつまびらかにしていく。とどのつまり、神道の目指すところは現世の繁栄であり(現世主義)、人間の欲望の肯定であり、共同体の永続であり(集団主義)、楽観的人間観だ。これはまさに日本人の民族的特性に他ならず、その影響力の強さは仏教を遥かに凌駕しているだろう。頼住は、「日本民族の生活の根底であり、日本的思惟方法の基盤をなしている」(同書128ページ)この神道は現在、「祭祀(祭り)によって共同体の絆を強化する機能が再評価されるとともに、世界のあらゆる存在に神性を見い出す考え方が、環境問題をはじめとする近代のさまざまな問題を生み出した人間中心主義に対するアンチテーゼになり得ると関心が集まっている~神道の精神性に基づき、その宗教的、倫理的価値を現代に生かす方法を今後模索する必要があるだろう」(同書145ページ)と提議する。 ――――― このあとの章は「日本思想では究極的存在(帰依対象)をどのように捉えているのか」「日本思想では救済をどのように捉えているのか」「日本思想の世界観とはどのようなものか」「日本思想では倫理をどのように捉えているのか」と続いてフィナーレを迎えるのであるが、とりわけ興味深く読んだ箇所を(本筋からはやや離れてはいるが)二つばかり紹介して本稿を終えたいと思う。 まずは、日本の究極的存在たる天照大神の起源についてである。 「最近の研究によると、本来、天皇家で祀っていた神は天照大神ではなくて、高御産巣日神などの「むすひ」(=結び)の神であるといわれている~また、高御産巣日神は高木の神とも呼ばれるが、これは、この神が、山上や樹に神は降下すると考える北方シャーマニズム系の神であることを物語っているといわれる。日本の皇室の祖先は北方の系統であると推定されていることを考え合わせると、さらに天皇家の本来の神がムスヒ神であったことが補強される。それに対して、アマテラス神話を伝える有力民族は南方系の海人族である~天照大神の原初の姿は男神であったとも言われている。その神を祀る巫女が、後世、天照大神とされるに至った。ここには、祀る者を、祀られる神そのものと同一視するという信仰が見て取れるのである」(同書170ページ) 邪馬台国を始めとする古墳群もそうだが、歴史の掘り起こし作業には終わりはなく、未来の築き上げ作業もまた終わりはない。僕がことさら仏教に知的源泉を求める理由は、頼住が仏教について、「絶対者を立てず、自己が修行を積んで真理を体得することを目指す自力救済型、すなわち悟り型」(同書174ページ)だと説明するように、一神教にはあり得ない哲学的思索の途方もなさがあるからだ。 もう一つは、道元の『典座教訓』にあるエピソード。食事する者の大事を説いた『赴粥飯法』と同じく「食」にまつわる著書だ。典座とは禅院における台所係。それまでは雑用として蔑視されていたこともあり、宋への留学中、船内で出会った老いた典座に「どうして修行をしないのか」といった質問をすると、「遍界不曽蔵(へんかいふすんそう)」(全世界は何も隠していない)と答えたのである。これの意味するところは、自分がいる今、ここにこそ真理が現れているということであり、典座の仕事は座禅や公案問答に優るとも劣らない大事な修行だということ。要するに、職に貴賤などなく、今、目の前のやるべきことを全力あげて行う、そんな倫理が示されている。 かくいう僕も今年から大徳寺の塔頭で清掃の仕事を始めたが、禅宗文化の結晶とも言うべき方丈や庭園の美の維持を請け負うことができて感無量だ。台所係も掃除係もこの世になくてはならないものであり、一瞬たりとも同じ状態ではない(引っ切り無しに枯れ葉が落ちてくる)境内は諸行無常の世界。同じ一日はない。道元の言葉を噛みしめ、舞い散る雪を払いながら、今日もまた修行の場へ向かう。 虎石 晃 1974年1月8日生まれ。東京都立大学卒業後は塾講師、雑誌編集を経てデイリースポーツ、東京スポーツで競馬記者を勤める。テレビ東京系列「ウイニング競馬」で15年、解説を担当。著書2冊を刊行。2024年春、四半世紀、取材に通った美浦トレーニングセンターに別れを告げ、思索巡りの拠点を京都に。趣味は読書とランニング。

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