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第15回 猿田彦神の正体と巨大璧の出土

 高天原(邪馬台国)の南部九州への天降り(進出)に伴って不思議なことがあります。邇邇芸命(ににぎのみこと)一行の出発地の高天原は福岡県であり、宮崎県高千穂峡は鹿児島県へ向かう通り道に当たり、到着地の霧島山や日向三代の舞台は宮崎県と鹿児島県です。つまりこの天降りには熊本県の菊池平野や熊本平野、人吉盆地などを避けたように見えるのです。熊本県は男王が治め菊池彦が守護していた狗奴国の領地でした。しかし、邪馬台国は魏への朝貢を再開して張政を帯方郡へ送り還しているので、狗奴国は敗れたはずです。もしかしたら、狗奴国は勢力が一時的に衰えただけで滅びていないのかも知れません。それを裏付けるように、その後の大和朝廷の時代になってからも、熊本県周辺には熊襲(くまそ)という集団が割拠していて、再三に渡って大和朝廷を苦しめていることが記紀に記されています。例えば4世紀末の第十二代景行天皇は熊襲と戦うために天皇自ら九州に赴いています。

 もう一つ不思議なことがあります。それは天降りの際に先導役を務めた国津神の猿田彦神(さるたひこのかみ)のことです。まずは猿田彦神について、古事記と日本書紀のあらすじを紹介します。

【 (古事記) 天の八街(やちまた)にいて、上は高天原を照らし、下は葦原の中津国(出雲などの諸国)を照らす神がいた。天宇受売命(あめのうずめのみこと)が「天降りする道にいるのは誰だ」と問うと、「私は国津神の猿田彦神だ。天津神が天降りすると聞いて先導役を務めるためにここにいる」と答えた。そして、目的地の笠沙(かささ)の岬に到着すると、邇邇芸命は天宇受売命に、「先導役を果たした猿田彦神を送り還して、その妻になれ」と命じた。

(日本書紀) 天降りする際に天の八街に一人の神がいた。神の鼻はとても長く、背が高く、口の周りが赤く、眼も赤いホオズキのようだ。天宇受売命が「天降りする道にいるのは誰だ」と問うと、「私は猿田彦神だ。邇邇芸命が天降りすると聞いたので先導役を務めようと思う。邇邇芸命は筑紫の日向の高千穂のクシフル岳へ天降るのが良いと思う。この役目が済んだら、天宇受売命が私を伊勢へ送っていくべきだ」と答えた。  】

 古事記と日本書紀を総合すると、驚くべきことが記されています。まず、猿田彦神は八街(道が八方に分かれる街はずれ)にいて、容貌は倭人とは思えない天狗のような風貌をしています。そして、国津神にもかかわらず、高天原だけでなく出雲などの諸国をも照らしている(導いている?)のです。極め付きは、天津神である邇邇芸命の天降り先を高千穂のクシフル岳と提案したのは国津神である猿田彦神だということです。

 そんな不思議な猿田彦神にピッタリな人物が魏志倭人伝に一人だけ記されています。その人物こそ「張政」です! 張政は帯方郡では「賽の曹掾史(さいのそうえんし:国境警備官)」の職にあり、帯方郡の国境(八街)で守備の任務をしており、倭人とは風貌の異なる異国人です。しかも倭国に来て邪馬台国が狗奴国に勝つように激を飛ばし指導する立場にいました。また、第13回に記した通り、邪馬台国が狗奴国に勝利すると台与は朝貢を復活させ、張政を帯方郡へ送り還しています。張政は、「高天原三征」大作戦の一つである南部九州への天降り先について提案しただけでなく、先導役まで務めた後に帯方郡へ帰還した可能性があります。

 その裏付けとして、川内市宮内の亀山に鎮座する新田神社の本殿の裏には、邇邇芸命の墓とされる可愛山陵(えの さんりょう)がありますが、その墓の隣りに興玉(おきたま)神社が鎮座していて祭神は猿田彦神になっています。また、荒(こう)神社も鎮座していて祭神は須佐之男命です。荒(すさ)ぶる神の須佐之男命が「荒」神社に祀られていることはなかなか意味深ですが、その須佐之男命と並んで、国津神の猿田彦神が邇邇芸命の墓を鎮護していることも意味深です。しかも新田神社には猿田彦神を現したとされる「大王面」という名前の長い鼻をした天狗の仮面が伝わっています。

 猿田彦神は新田神社の他に、日本書紀に還るべき所と記された伊勢神宮のそばの猿田彦神社にも鎮座しています。また、福岡県福岡市早良区藤崎(市営地下鉄「藤崎駅」近く)にも猿田彦神社が鎮座しています。特に早良区の猿田彦神社は、この地が高天原(伊邪国)に当たることから、とても大きな意味を持つ神社です。早良区の猿田彦神社により、またひとつ魏志倭人伝と記紀の双対性(そうついせい)が補強されたように思います。

▲猿田彦神社(福岡市早良区)

 

 邇邇芸命を祀る新田神社には、邪馬台国時代のころの国産の銅鏡が4面伝わっています。また、新田神社の南の日吉遺跡からは「鉄剣」が出土しており、新田神社の西の外川江遺跡からはガラス製の「小玉」と、直径9.1センチの銅鏡も出土しています。この銅鏡は小型内行花文鏡(Ⅱa型)と呼ばれる卑弥呼の時代の国産鏡で北部九州では多く出土している型式です。

 このように新田神社付近から剣と鏡と玉の三種の神器が出土していることは、邇邇芸命が天降りする際に、剣と鏡と勾玉の三種の神器を携えていたことや、石の鋳型で鏡造りをする石凝姥命(いしこりどめのみこと)や玉造りの玉祖命(たまのおやのみこと)などの神々を帯同させていたことと整合しています。さらに言えば、北部九州では豊富に埋納することができた銅鏡ですが、邇邇芸命が南部九州に天降りした3世紀後半は、魏の国力が衰えてきたことにより後漢式鏡の入手が困難となり、国産に切り替えなくてはならなくなった時期と重なります。

 その他に新田神社の亀山の端(亀の頭部)には端陵(はしりょう)という前方後円墳があります。端陵は全長54m、後円部の直径36mあります。また端陵と相似形の古墳として、宮崎市に檍(あおき)1号墳があり全長52m、後円部の直系35mです。檍は阿波岐原の「あわぎ」という漢字ですがこの古墳は「あおき」と称されています。もう一基、新富町に下屋敷(しもやしき)1号墳があり全長27m、後円部径20mです。この三基の前方後円墳は、(全長):(後円部直径):(前方部長さ)がおよそ3:2:1の比率になっており、前方後円墳の発生初期の特徴を持っています。発生初期の前方後円墳については後の回でまた取り上げます。宮崎県西都市には西都原古墳群があり、円墳などの他に、巨大前方後円墳である男狭穂塚(おさほづか)古墳(全長120m)や女狭穂塚(めさほづか)古墳(174m)がありますが、これらのほとんどは発生初期の古墳ではなく4世紀後半から5世紀にかけて造られたものと思われます。

 以上見てきたとおり、南部九州にも邪馬台国時代の出土品や遺跡がある程度あるのですが、南部九州への進出は魏の国力の衰えの時期と重なり、後漢式鏡の入手が困難となったため、北部九州の出土物と比較して質、量ともに見劣りするように思えます。しかし、この状況を一発逆転する宝物が江戸時代(1818年)に宮崎県から出土しています。それは串間市の王之山(おうのやま)遺跡から出土した巨大な璧(へき)です。

 第10回に書いたとおり、璧とは中国の殷(いん)、周(しゅう)の時代からの王が所持する宝器であり、平らな円板の中央に円形の穴が開いたドーナツ形をしています。『季刊邪馬台国第30号』(梓書院)に掲載された九州歴史資料館技術主査(西南学院大学名誉教授)の高倉洋彰氏によれば、我が国からの璧の出土はわずか4例のみで、すべて九州の3世紀ころの遺跡から出土しています。その内の3例は、伊都国(糸島市)の三雲南小路(みくもみなみしょうじ)遺跡(ガラス製、直径11~12cmの複数枚)と、奴国(春日市)の須玖岡本(すぐおかもと)遺跡(ガラス製の破片)と、邪馬台国(夜須町。現、筑前市)の東小田峰遺跡(ガラス製を加工、直径4cm)からの出土です。

 そして4例目が宮崎県串間市の王之山遺跡の石棺から、鉄製品や玉類とともに出土した硬玉(翡翠:ひすい)製の璧です。この璧は直径が33.3cm、重さが1.6kgもある4例中で最大の璧であり、欠けた所が無くまさしく「完璧」です。しかもガラス製ではなく(ガラス製でもすごいのですが)、緑色が鮮やかで透明度が高く、とても硬いために加工の難しい硬玉製です。出土した場所や「王之山」という名前から考えて、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)または神倭伊波礼毘古命(かんやまと いわれひこのみこと)の宝物であった可能性が十分にあります。

 さて、前回お話ししたとおり、南部九州へ天降った邇邇芸命からの三代の宮殿や山稜と神倭伊波礼毘古命の宮殿は、鹿児島県の西端から次第に東へと遷り進み、神倭伊波礼毘古命に至って宮崎市の東端に達しています。神倭伊波礼毘古命はそれからどう活躍するのか記紀の続きを見てみましょう。

【 神倭伊波礼毘古命は宮崎にしばらく留まったが、その土地は膂宍空国(そししのむなくに)であった。塩土老翁(しおつちのおじ)は「東に四方を青山に囲まれた良い国がある。天磐船(あまのいわふね)に乗って既にその国に天降った者がいる」と言った。それを聞いた神倭伊波礼毘古命は「その国は天下を治めるのに足る場所で、国の中心にするのに相応しいと思う。天降った者の名は邇芸速日命(にぎはやひのみこと)と言うらしい。そこへ行って国を造ろうではないか」と言った。】

 神倭伊波礼毘古命は南部九州を勢力範囲として治めましたが、ここは姶良(あいら)カルデラ噴火の火砕流でできたシラス土壌が広がっていて、滋味豊かな土地ではなく肉の少ないイノシシの背中のような空っぽの国(膂宍空国)でした。南部九州は今でこそ稲作ができるようになりましたが、芋などの畑作も盛んです。古代には稲作技術も未熟だったと思われ、神倭伊波礼毘古命は塩土老翁の進言どおり、東方の山ふところに抱かれた奈良をめざすことにしました。この塩土老翁は日本書紀の一書(あるふみ)によれば伊邪那岐命の御子で高天原の指導者です。しかし、奈良には神倭伊波礼毘古命よりも先に、天磐船に乗って(邇邇芸命の兄の)邇芸速日命(にぎはやひのみこと)が天降っているようです。神倭伊波礼毘古命は、どのように塩土老翁の進言を果たすのでしょうか。この続きは「高天原三征」大作戦の話が済んでからにしますが、少しだけ先走りすると、神倭伊波礼毘古命は奈良への進出に成功して、初代天皇の「神武(じんむ)天皇」になります。ただし、神武天皇とか第二代綏靖(すいぜい)天皇などの称号は、漢風諡号(かんふうしごう)と言われて、760年代に文人の淡海三船(おうみの みふね)が取りまとめて奏上した天皇没後の称号です。なお、綏靖とは綏も靖も「安らか、平安」という意味です。古事記は712年編纂された書なので、当然、神武天皇と言う称号は使われていません。ただし、日本書紀は720年に編纂された書ですが、後世の加筆により神武天皇や綏靖天皇などの漢風諡号も併記されています。

 ところで、神倭伊波礼毘古命(かん やまと いわれ ひこ)という生前の名前については、「大和(奈良)に進出する前に「やまと」という名前は変だ」とか、奈良県桜井市に「磐余(いわれ)」という地名があるので、神倭伊波礼毘古命の名前は磐余にちなんで創作された」とか、「そもそも神倭伊波礼毘古命は実在の人物ではなく創作された神である」などと、記紀神話(記紀実話)を捨ててしまった人たちから散々に非難されています。

 しかし、これらの非難はいずれも的外れです。第8回でお話ししたとおり、「邪馬台国」は「やまとのくに」が正しい音読みだと思います。そして「伊波礼」は古語では「いはれ」、現代語では「いわれ」と訓じられ、共に「由緒」の意味です。このため「神倭伊波礼毘古命」とは、「(北部九州にある)邪馬台国(やまとのくに)に由緒(いはれ)を持つ男神(彦神)」という意味で、高天原の天津神としてとても相応しい名前なのです。奈良の「磐余」の地名は、神倭伊波礼毘古命が奈良に進出した後に名付けられた地名だと日本書紀に記されています。大和朝廷の編纂した記紀を尊重すると、そこには目からウロコの日本古代史が立ち現れてくるのです。


高橋 永寿(たかはし えいじゅ)

1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。邪馬台国の会会員。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。

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