第10回 高天原の造化三神
前回は、高天原は天照大御神と須佐之男命が生まれた早良平野を含む福岡平野に発祥し、その後、天の安河が流れ天の香山がある朝倉盆地まで広がったと考えられることと、高天原は奇跡的に現代まで伝承された邪馬台国の姿と考えられることを説明しました。今回からは、記紀神話(記紀実話)を読み解くことで魏志倭人伝を補足し、邪馬台国の解像度を上げていきます。記紀のあらすじと神々の系図は第9回を見てください。 天地が開けた時、高天原には最初に天之御中主神(あめの みなかぬしのかみ)が現われ、次に高御産巣日神(たかみ むすひのかみ:高木神)が現われ、次に神産巣日神(かん むすひのかみ)が現われました。これらの高天原を造った神々を造化三神(ぞうかの さんしん)といいますが、造化三神は魏志倭人伝で言えば誰の反映なのか推測します。 徳川家康は実在の人物ですが、東照大権現という祭神として日光東照宮などに祀られています。明治天皇と昭憲皇太后も実在の人物ですが、祭神として明治神宮に祀られています。神道により神社に祀られている神は実在の人物であり、記紀に登場する神々も実在の人物の反映と考えるべきです。 ―――――― まず、造化三神のうち最初に現れた「天之御中主神」が誰の反映なのかを考えます。「天」は高天原の統治者である天(あめ)一族を指します。天一族は天津神(あまつかみ)または天神(てんじん)とも呼ばれています。一方、高天原ではない地方の神々は、出雲も含めてすべて一段格下の国津神(くにつかみ)と呼ばれています。「天之御中主神」から一族の名である「天(之)」を除いた「御中主神」のうちで固有名詞と考えられるのは「中」だけです。北部九州にあった邪馬台国で「中」の王と言えば、那珂王すなわち奴国王だと推測できます。奴国王は奴国だけでなく倭国全体を治める王であり、「漢委奴国王(かんの わのなのこくおう)」金印の持ち主です。これは造化三神の中で最も早く現れた神に相応しい見立てです。なお、奴国のあった福岡市には天神という繁華街があります。 しかし、天之御中主神は古事記の冒頭に登場するだけですぐに退場してしまいます。このことは、奴国が倭国の発祥の地ではあるももの、倭国大乱で邪馬台国に敗れてしまい高天原の舞台が邪馬台国の王都である朝倉盆地へと移ってしまったことに対応しているように見えます。帯方郡の使者たちの見聞を基に記されたと思われる魏志倭人伝も、後の大和朝廷が記した記紀も、邪馬台国時代の様子が中心であり、残念ながら奴国時代の栄光が詳しく記されていないのです。 天之御中主神を主祭神とする神社は残念ながら全国的に見て多くありません。しかし、奴国であった那珂川上流の那珂川市片縄東にはその名もズバリ御中主(みなかぬし)神社があり貴重です。また、さらに上流の那珂川市市ノ瀬には日吉(ひよし)神社があり、主祭神は天之御中主神です。なお、中世になると「天之中心である北極星」を神威とする妙見(みょうけん)信仰が生まれ、天之御中主神と妙見菩薩(みょうけんぼさつ)とが習合(融合)した妙見神社が全国各地に創建されます。 造化三神の二番目に現れた高御産巣日神を見立てる前に、三番目に現れた「神産巣日神」が誰の反映なのかを考えます。神産巣日神も古事記の冒頭に登場するだけですが、後の出雲国が残した「出雲国風土記」には「神魂命(かん むすひのみこと)」として登場します。神魂命は国津神である大国主命(おおくにぬしのみこと)などの出雲の国津神を指導する神です。神産巣日神にも神魂命にも、天一族を現わす「天之」が付いていません。もしかしたら、神産巣日神は出雲の祖先神である国津神であり、いわば名誉天津神なのかも知れません。神魂命を主祭神とする神社は天之御中主神の神社よりもさらに少ないのですが、出雲大社の摂社(関連する神社)として神魂命主社(かんむすび いのちぬしのやしろ)があります。 高天原と出雲は奴国時代から密接な交流が見られます。ただし、出雲出身の国津神であった伊邪那美命(いざなみのみこと)が、高天原出身の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の妻となり天津神に昇格しているので、高天原は出雲より格上です。いずれにしても神産巣日神(神魂命)は出雲のことがまったく記されていない魏志倭人伝には登場しないので相当する人物が見当たりません。 造化三神のうち二番目に現れた「高御産巣日神」は三神の中で最も活躍する天津神で、古事記には「高木神(たかぎのかみ)は高御産巣日神の別の名なり」と記されています。福岡市西区の早良平野には「三角おむすび」の形をした飯盛山(382m)があり、飯盛神社が鎮座していて祭神は伊邪那美命です。また飯盛山から約25km東にある糟屋郡篠栗町には、やはり「三角おむすび」の形をした若杉山(681m)があり太祖(たいそ)神社が鎮座していて祭神は伊邪那岐命です。二つの山は祭神からわかるように夫婦山(めおとやま)と呼ばれていて、その「おむすび(御産巣日?)」の形から伊邪那岐命の祖先神である高御産巣日神とも関係があるように思えます。 そしてその飯盛山の2km真東の福岡市西区(大字)吉武(字)高木には吉武高木(よしたけたかぎ)遺跡があり、2世紀の王宮と言われる大型掘立柱建物跡が発掘されました。柱穴は二列になっていて、外側の柱列は6間(約11m)×5間(約9m)、内側の柱列は5間×4間(約7m)あります。この大きさは2世紀の建物としては我が国最大の宮殿の跡です。この宮殿の長辺からは飯盛山頂上が真正面に見えて、飯盛山と宮殿との中間地点に飯盛神社が鎮座しています。吉武高木遺跡からは多数の青銅製の剣や鏡と翡翠(ひすい)製の勾玉の三種の神器が出土しています。高天原の発祥とともに現れた高御産巣日神(高木神)は早良平野でも活躍した可能性があります。 高御産巣日神は造化三神の一柱であり高天原を興した神ですが、その後も長く活躍します。例えば、天照大御神が天の岩屋戸に隠れてしまった時には、高御産巣日神が、自身の御子である天思兼命(あめのおもいかねのみこと)に善後策を考えさせて高天原を差配しました。また、天照大御神が天の岩屋戸に隠れてから再び天の岩屋戸から現れると、高御産巣日神は天照大御神と共に八百万(やおよろず)の神々に差配するようになります。さらに万幡豊秋津師比売命(よろずはた とよあきずしひめ のみこと)も高御産巣日神の御子であり天思兼命の妹で記紀にたびたび登場します。 インターネットの神社統計サイト『神社帳簿』で調べると、高木神を主祭神とする高木神社は現在全国に44座が掲載されており、そのうち邪馬台国であった朝倉盆地周辺に3分の1の15座あり、投馬国(台与国、豊の国)には同じく3分の1の14座が鎮座しています。高木神は早良平野でも活躍し、邪馬台国でも投馬国でも活躍している神なのです。 神は生身の人物を反映しているのですから、高天原が発祥した奴国時代から、早良平野の吉武高木の時代を経て、邪馬台国時代の天の岩屋戸事件や、その後の時代までの長期に渡って活躍する神が同一人物であるはずはありません。このため、高御産巣日神は、世襲により代々引き継がれていく神名のように見えます。 高御産巣日神が代々世襲される神名だとしたら、そのような人物は魏志倭人伝に記されているでしょうか。魏志倭人伝を読み返してみると「伊都国には世々王がいる」と記されています。残念ながら伊都国の世々の王の名前は記されていません。また、伊都国には高木神社がありません。しかし高祖山(たかすやま:416m)のふもとに高祖(たかす)神社が鎮座しています。高祖神社は、伊都国の王墓である三雲南小路(みくもみなみしょうじ)遺跡と井原鑓溝(いはらやりみぞ)遺跡の、東2km以内に位置しています。 三雲南小路遺跡からは、1号甕棺は銅鏡(前漢鏡)31面以上、銅剣1、ガラス勾玉3の三種の神器に加え、銅戈1、銅矛 2、ガラス璧(へき)破片8以上、ガラス管玉60以上などが出土し、2号甕棺は銅鏡(前漢鏡)22面以上、勾玉13、ガラス璧(へき)の破片1などが出土しています。璧(へき)とは中国の殷(いん)、周(しゅう)の時代からの王が所持する、翡翠(ひすい)やガラス製の宝器であり、平らな円板の中央に円形の穴が開いたドーナツ形をしています。また、井原鑓溝遺跡からは、方格規矩四神鏡18面以上、巴形銅器2が出土しています。これらの遺跡は正に世々の王墓に相応しい豪華な副葬品を伴っています。 高祖神社の祭神を調べてみると、高祖(たかす)大明神と、玉依姫(たまよりひめ)と、息長帯姫命(おきながたらしひめ)です。高祖大明神は、天照大御神の曽孫(ひまご)世代の火遠理命(ほおりのみこと)で別名は彦火火出見命(ひこほほでみ のみこと)であるとされていますが、なぜ高祖大明神などという記紀に登場しない神名で伝えられているのでしょうか。そして、玉依姫は火遠理命の義理の娘(子の妻)であり、息長帯姫命は大和朝廷の400年頃の第十四代仲哀天皇の皇后で、神功皇后(じんぐう こうごう)とも呼ばれています。この三神は時代がまちまちで何とも統一感のない組み合わせであるため、後付けされた祭神のようにも見えます。一般的に各地の神社の祭神は、伝承が途絶えてしまうと祭神が変わってしまったり、新たに加わったりすることがたびたび起こっています。 そこで高祖大明神と称される神として、どんな神が相応しいのか、境内(けいだい)にある摂社(せっしゃ)に着目しました。境内摂社には「伊弉諾(いざなぎ)神社」があり、祭神は伊邪那岐命と伊邪那美命です。すると本社である高祖神社の祭神はそれより格の高い造化三神が相応しいように思えます。さらに境内摂社には「思兼(おもいかね)神社」もあり、祭神はもちろん高御産巣日神の御子の天思兼命です。二つの境内摂社の祭神から考えて、本社である高祖神社の高祖大明神の正体は高御産巣日神こそ相応しいように思えます。つまり、「高」祖神社の「高」祖大明神は、「高」天原の祖先神である「高」御産巣日神すなわち「高」木神のことであるとしたら、それぞれに「高」が付く理由を説明できます。 高御産巣日神が伊都国の高祖神社に祀られているとしたら、高御産巣日神は世々の伊都国王の可能性がでてきます。世々(代々)の高御産巣日神は伊都国王を始祖として伊都国を治め、後には高木神として早良平野へも進出し、邪馬台国時代になると朝倉盆地周辺へ遷り、さらには万幡「豊」秋津師比売命の父親として台与国(豊の国)でも活躍したと考えると、朝倉周辺や豊の国に高木神社が多いことが納得できます。私は、万幡「豊」秋津師比売命の「豊」と卑弥呼の後継者の「台与」とは音韻が一致しているため、同一人物であると推定しています。このことについては後の回でも取り上げます。 ――――― さて、豊の国の福岡県添田町には標高1200mの英彦山(ひこさん)が聳え、英彦山神宮が鎮座しています。英彦山神宮の祭神は天照大御神と須佐之男命との誓約(うけい)で産まれた天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)です。天忍穂耳命の妻は万幡豊秋津師比売命です。 英彦山の隣りには標高979m鷹ノ巣(たかのす)山があり、高住(たかすみ)神社が鎮座しています。高住神社の祭神は「豊日別命(とよひ わけのみこと)」と天照大御神、饒速日命です。豊日別命とは筑紫の神であり豊の国の神でもあり、地元では「高」御産「巣」日神と同一神であると言われています。高木神社は投馬国(台与国、豊の国)に多いと書きましたが、中でも遠賀川(おんががわ)と英彦川(ひこがわ)の源流域、すなわち英彦山の周囲に多く10座が集中しています。あたかも、岳父(妻の父)の高木神社が天忍穂耳命の英彦山神宮を護るように幾重にも取り囲んでいます。なお、英彦川は遠賀川の支流であり、直方市で合流した後に響灘へと注ぐ「豊の国」の重要な河川です。 このようなことを考慮すると、伊都国の高祖神社は、鷹巣神社、高巣神社、高住神社と関連していて、祭神の「高祖(たかす)大明神」はやはり高御産巣日神(高木神)が妥当のように思われます。ただし私は「高木神は世々の伊都国王に間違いない」と強く主張しているわけではありません。少なくとも代々の高木神は、吉武高木の早良平野や邪馬台国の筑紫平野や投馬国(台与国、豊の国)において継続的に活躍した人物だとは言えそうです。 ――――― 高御産巣日神の「高」の由来は高天原にあると思いますが、高御産巣日神の別名である高木神の「木」にはどのような由来があるのでしょうか。 卑弥呼の墓と推定される糸島市の平原遺跡には直径70cmの大柱が立てられていました(写真1)。 糸島市役所の推定によると高さは20mくらいあったとされています。この大柱は方形周溝墓の東側に立てられており、西側の鳥居穴跡の方向から眺めると正確に日向(ひなた)峠の方向を指していて、日向峠からは11月頃(晩秋)と、2月頃(真冬)にここからの日の出が拝めます。 また、佐賀県吉野ヶ里町にある吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓の前にも立柱(りっちゅう)と呼ばれる直径1.4~1.8m、深さ1.1mの柱穴が検出され、柱の直径は50cm、高さは7m以上あったと推定されています(写真2)。 さらに、長野県諏訪市にある諏訪大社の御柱祭(おんばしらさい)でも、直径約1m、長さ約17mのモミの御柱を山から降ろして諏訪大社の四隅に建てます。祭神は、出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)の御子である建御名方神(たけ みなかたのかみ)です。 これらの高い柱は、神社の御神木のように神聖視されていたと思いますが、平原遺跡の大柱が日向峠を指していることから深読みすれば、大柱は「太陽柱(たいようちゅう)」を表現していると考えられます。 写真3は私が稚内地方気象台に勤務していた2011年5月6日 18時37分に野寒布岬(のしゃっぷ)岬に沈む太陽による太陽柱です。太陽柱とは、日の出または日没時に、氷の結晶でできた巻雲や巻層雲などの上層雲が広がり、これに上空の風が弱いという条件が重なると、氷の結晶の形が揃って漂うことになり、結晶で反射された太陽光が縦方向に伸びて眼に届く現象です。 古代中国の『山海経(せんがいきょう)』によると、東の果てには扶桑樹(ふそうじゅ)、西の果てには若木という共に巨大な樹が生えており、太陽は毎朝この樹に沿って昇り、夕方には若木に沿って沈むことで若々しく再生すると考えられていました。そして、この扶桑樹や若木という発想は、稀に姿を見せる太陽柱から出たと考えられています。 四川省成都市近郊にある三星堆(さんせいたい)遺跡からは扶桑樹や若木をかたどったと思われる、高さ389cmもある青銅製の神樹が出土しています(写真4)。 神樹には9羽の鳥が止まっていて、この鳥は太陽を背負うカラスと見られています。10羽目のカラス(太陽)は日の出により既に神樹から離れて昇っているのでしょう。古代中国では太陽には金烏(きんう)というカラスが住んでいるという伝承があり、太陽黒点の形をカラスに見立てたのではないかと言われています。茫漠たる黄砂が舞う季節の中国大陸では、朝夕に太陽黒点が肉眼で見られることもあるそうです。また、湖南省長沙市馬王堆(まおうたい)の漢時代の墓に掲げられていた彩色帛画(はくが:絹織物に描かれた絵画)には、カラスの住む大きな太陽と、扶桑樹に絡みながら出番を待つ小さな8~9個の太陽が描かれています。古代中国では宇宙には太陽が10個あり、順番に1つずつ昇って現れると信じられていて、これが、上旬、中旬、下旬の由来です。旬の漢字の中に日の漢字が入っています。 さて、高御産巣日神はなぜ高木神という別名を持っていたかの理由ですが、高木とは東の扶桑樹であり西の若木であり、平原遺跡の大柱も吉野ヶ里遺跡の立柱も、諏訪大社の御柱も、神社の御神木もみな同じ意味を持っていたからだと思います。つまり、高御産巣日神は天照大御神と同様に高天原を支える太陽神でもあったと思います。太陽神という神威により高御産巣日神と天照大御神とは共に八百万の神々を差配していたのです。 ――――― 東(ひんがし)の野に 炎(かぎろひ)の立つ見えて 返り見すれば月傾きぬ 万葉集にある柿本人麻呂の和歌ですが、これは、軽皇子(かるのみこ:後の第四十二代文武(もんむ)天皇)が692年12月の冬至の頃に奈良の宇陀で狩りをした時の情景を詠んだものです。意味は「東の空に陽炎が立つのが見えて、振り返えって見ると西の空には月が沈もうとしている」という情景歌ですが、本意は、686年に崩御した第四十代天武(てんむ)天皇を月に見立て、孫の軽皇子の成長を太陽光に見立てています。柿本人麻呂は軽皇子を「高照らす日の皇子」とも呼んでいます。 「炎(かぎろひ)」は日の出や朝焼けと解釈されることがありますが、これらは「立つ」とは言いません。そこで有力な説として「かげろう」のことだと解釈されています。「かげろう」とは日射により地面が暖められて空気の密度に乱れが生じて、蒸気が「立ち昇る」ように風景が揺らめいて見える現象のことです。原因は太陽熱にあるので春先に多く見られ、俳句でも春の季語になっています。つまり「かげろう」は冬至の頃には現れにくいのです。 一方、「太陽柱」は真冬に現れやすいのです。氷でできた上層雲は、夏は空気が暖かく膨張しているため1万m以上の上空でないと現れないのですが、冬は空気が冷たく収縮しているため高度が下がって5000m以上の上空に現れます。真冬の日の出頃の東方向や、日没頃の西方向は、遠くの上層雲が低く垂れ込めているように見えるため「太陽柱」が現れやすいのです。私が5月上旬に太陽柱を目撃できたのは、稚内が(北方四島の択捉島を除いて)日本最北の街だからです。稚内の5月上旬はエゾヤマザクラがまだ開花しない肌寒い時期に当たり、上空はまだ冬なのです。標本木の桜の花が5~6輪開くと各地の気象台は桜の開花を発表します。太陽柱が見られた2011年の桜前線は、1月7日に那覇でスタートし、5月19日に稚内でゴールしました。 最北の街までさくら五、六輪 (永寿) 古代からの太陽柱を模したと思われる高木を神聖視する風習があったことや、氷でできた上層雲が低く垂れ込めて見える冬至の頃の情景を考え合わせれば、「炎の立つ」は「太陽柱」を指している可能性が十分にあり、太陽柱が立ち見えたのなら、かげろうよりも天武天皇の孫である軽皇子の成長を寿ぐに相応しい感動的な情景になると思います。以上のことは私が思い付いたことなのですが、後で調べてみると、柿本人麻呂の和歌の「かぎろい太陽柱説」は理学博士の西村昌能(まさよし)氏がずっと前に発表していることがわかりました。 今回は高天原の造化三神が魏志倭人伝で言えば誰の反映に当たるのか推測し、特に最も活躍する高御産巣日神(高木神)について詳しく紹介しました。次回は伊邪那岐命と伊邪那美命が産んだ大八島の成り立ちと、早良平野の鉄資源に焦点を当てます。 高橋 永寿(たかはし えいじゅ) 1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。邪馬台国の会会員。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。



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