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第8回 女王台与とその後の邪馬台国

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 諸家に伝わる書の中には、奴国時代や邪馬台国時代からの伝承も含まれていたはずです。なぜならば第5回に記したとおり、魏志倭人伝には卑弥呼の官人が魏の国への感謝を「文書」で伝えたと記されていて、伊都国に漢字を使いこなせる官人がいたことが確実だからです。しかも、伊都国からは奴国時代の硯(すずり)が出土しています。官人は2~3世紀の倭国の歴史を書き残したと考えるべきでしょう。

 天武天皇(生年不詳、686年没)の生前には古事記が完成しなかったため、第四十三代元明天皇(661年~721年)が太安万侶に対して、稗田阿礼から聞き取りをして完成させよと命じて、712年になって古事記は元明天皇に献上されました。

▲真福寺収蔵の『古事記』(賢瑜による写本)

▲太安萬侶墓出土 墓誌・真珠

 なぜ本物の古事記を偽書としたのか、なぜ偽物の旧石器を本物としたのかの反省や再検証が今日でも十分に行われていないため、これからも同じようなことが繰り返されるように思います。先日、纏向遺跡から「卑弥呼も目にし、撫(な)でたかも知れない」犬の骨が出土したと発表されました(2025年4月22日の朝日新聞など)。すべての出土品は自説に合わせて解釈するためにあり、それらを自説の精度を高める検証には利用しない学者がいるのです。北部九州では鉄鏃や絹製品、後漢式鏡が出土し、奈良では出土しなくても、机上の解釈だけで乗り切ってしまうため、何が出土しても自説が揺らぐことは無いのです。果たして「卑弥呼の愛犬」説が正される日は来るのでしょうか。

 さて、日本書紀は天武天皇の皇子の舎人親王や、紀清人、三宅藤麻呂らが編纂し、第四十四代元正天皇に720年に献上された書です。主に国外へ向けて大和朝廷の悠久の歴史を広報するための書で、大筋では古事記と同様の内容を記しています。日本書紀は古事記よりもずっと長い書で、しかも一書(あるふみ)として異伝を幾つも載せており、中には十種類の一書を載せている箇所もあります。一書とは古事記序文で言う「諸家に伝わった異伝」ではないかと思います。異伝と言っても本文を真っ向から否定するようなものではなく、同じ事象を別の諸家から眺めた様子が記されています。記紀を読む場合は、古事記だけでなく、日本書紀本文と一書群を合わせて読むと相乗効果で我が国の成り立ちが鮮明になると思います。

▲巻第一(神代巻上)の写本(吉田本、2巻のうち)の巻頭部分。京都国立博物館蔵

 記紀は戦前戦中に、「我が国は神である天皇の治める国であり、臣民として命をかけて忠孝の誠を奉げなくてはならない」という皇国史観が強調され戦意高揚に利用されました。日本が敗戦すると反動により記紀は忌み嫌われるようになり、民主主義に反する悪書にされてしまいました。しかし、記紀を素直に読めば我が国の古代史を記した貴重な書であることがわかります。どの国も自国の歴史書を無視すれば謎の歴史になってしまうのは当たり前の話です。記紀神話は記紀実話であり我が国の優れた歴史書です。確かに天皇を中心とした国として記されてはいますが、紫式部の源氏物語に民主主義や男女平等を求めないのと同じ態度で読めばいいのです。

 邪馬台国奈良説の学者が記紀を忌み嫌う理由がもう一つあります。魏志倭人伝に出てくる名前と、記紀の神の名には対応するものが多く、人物(神々)の行動が類似しています。魏志倭人伝と記紀神話は、同じ史実の別表現であるとしか私には思えないのです。そして記紀には、天津神一族や物部氏が九州から奈良へ東征して奈良の在地勢力を滅ぼして大和朝廷を興したことが記されているのです。だからこそ、邪馬台国奈良説の学者たちは不都合な真実が記された記紀の神話を作り話だとして抹殺しているのでしょう。

 でも、この態度は私に言わせればとても奇妙なことなのです。邪馬台国奈良説の学者は奈良にあった邪馬台国が発展して大和朝廷(大和王権という学者もいます)になったと考えているので、いわば邪馬台国と大和朝廷の応援団のはずです。その大和朝廷自身が「大和朝廷は九州人が興した」と主張しているのに、そんな記紀神話は信用できないとしているのです。

 これらの学者は卑弥呼が奈良の女王であったことは間違いないとする一方で、「あーら不思議、中国の歴史書に我が国のことが登場しなくなった謎の4世紀に、奈良にあった邪馬台国が大和朝廷(大和王権)に代わっていましたとさ、めでたし、めでたし」とする人たちなのです。これまで見てきたとおり、魏志倭人伝に記された方位や、鉄や絹、銅(鉛)などの数々の根拠を無視して自説に固執し続けた結果、こんなお粗末なことになってしまったのです。

 もしかしたら邪馬台国は奈良であると思っている人たちは、「九州人が奈良の豪族を滅ぼして大和朝廷(大和王権)を興した」と記されていることにキキ感をいだき、「こんなん、作り話にせなアカンやろ!」と思っているのかも知れません(個人の感想です)。

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 記紀の中身に入る前に、記紀では「倭」や「大和」「日本」のすべてを「やまと」と読ませている理由について、定説に加え私の推測も少しまじえて説明します。

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 さて、飛鳥時代になると国の名前は「倭国」や「輪国」に代わって、和(なご)む、和(やわ)らぐ、和合するという意味を持つ「和国」が用いられるようになりました。聖徳太子の十七条憲法の第一条「和を以って貴しと為す」の音読みの「和」です。この国の政治はもともと独裁ではなく和合して治める国であったことは、卑弥呼が諸国の話し合いにより共立されて女王になった時も、天皇を中心として豪族が補佐する飛鳥時代でも変わりがありません。飛鳥時代ともなると漢字の知識が豊富になり、同じ音韻を持つ漢字の中から国名として相応しい漢字を「和人」が選び直したのでしょう。

 一般に「邪馬台国」を「やまたいこく」と読んでいますが、これは江戸時代の新井白石による読みが定着したためで、「やまとのくに」が正しい読みだと思います。「山処(やまと)」は筑紫山地と耳納山地に囲まれた福岡県の朝倉盆地(筑紫平野の北東部分)が起源であり、後に邪馬台国が奈良へ進出したため奈良盆地も「やまと」と呼ぶようになり、さらに後には我が国全体の名前として「やまと」と呼ぶようになったと思います。

 福岡県柳川市とみやま市周辺は古代の山門県(やまとのあがた)でしたが、筑後川の南側であり朝倉盆地からは少々遠くなります。そのため、朝倉盆地には「やまと」という地名が残っていないではないか、という人がいますが、実は奈良にも古代までさかのぼれる「やまと」という地名は残っておらず、国全体の名前になっているだけなので同等です。

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 さて、最初の課題に戻って、「倭」や「大和」「日本」の漢字を「やまと」と読むのはなぜでしょうか。「飛鳥」を「あすか」と読むのは「飛ぶ鳥の安住処(とぶとりのあすか)」と枕詞(まくらことば)を付けて言う慣わしがあり、飛鳥も安住処も「あすか」と読むようになりました。また、「春日の霞処(はるひのかすみが)」で春日も霞処も「かすが」と読むようになりました。

 さらに、文献には出てきませんが「倭の邪馬台」、「輪(和)の山処(わのやまと)」と言う慣わしもあったと私は類推しています。このため、大きい倭=大和=日本なので、「倭」や「大和」「日本」のすべてを「やまと」と読むようになったと考えます。

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 それではいよいよ次回から、魏志倭人伝と記紀神話(記紀実話)とにある人名や内容に類似性があることを紹介し、邪馬台国時代のことがどのように記されているかを見ていきます。次に、邪馬台国はその後どうなったのか、大和朝廷はどのように誕生したのかについて見ていきます。邪馬台国問題も謎の4世紀問題も、目からウロコが落ちるように、我が国の優れた歴史書である記紀が解決してくれるのです。


高橋 永寿(たかはし えいじゅ)

1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。邪馬台国の会会員。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。

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