第8回 女王台与とその後の邪馬台国
13歳で卑弥呼の後継者となった台与の出身地は北部九州のどこだったのでしょうか。第2回では、不弥国(宇美町)の次に記されている「投馬国」の読み方を示さずに遠賀川(おんががわ)をさかのぼった飯塚市の立岩遺跡辺りに想定できると書きました。 邪馬台国北部九州説では投馬国について、「つまこく」と読んで福岡県南部にある上妻(かみつま)郡や下妻(しもつま)郡、三潴(みづま)郡に想定したり、不弥国の東(あづま)に当たる遠賀川流域から豊前地方に想定したり、と定まっていません。 ところが、古代史研究家の天雲伝氏は、「投馬」は「つま」の他に「とよ」とも読めると指摘しています(安本美典『邪馬台国の真実』PHP研究所)。その理由は毛筆の崩し字の「馬」と「与」とが酷似していて見分けが難しく、元々は「投与」と記された漢字が写本を繰り返すうちに「投馬」になった可能性があるからです。「投与」ならば確かに「とよ」と読めて、卑弥呼の後継者の台与の音韻とも一致し、北部九州の豊(とよ)の国を思い浮かべます。第3回に書いたように奴国王が代替わりする際に王都が須玖岡本から比恵那珂や西新町(にしじんまち)へと遷ったようにも見えることから、邪馬台国も卑弥呼の時代には朝倉盆地にあり、台与の時代には遠賀川流域一帯へと遷って、台与の都が豊の国と呼ばれた可能性があるのです。 豊前地方には京都(みやこ)郡という地名が現在も残っていて、京都の名は定説としては大和朝廷の第十二代景行天皇が380年頃に九州に行幸した際に仮宮を建てたことに由来すると言われていますが、台与の時代の250年頃にさかのぼる可能性もあります。短期間の仮宮だけで京都と呼ばれるより、長期間にわたって台与の都があったための地名とした方が妥当のように思います。 ――――― さて、魏志倭人伝は台与が260年頃に魏の国へ朝貢した記事で突然終わってしまいますが、邪馬台国はその後どうなったのでしょうか。倭国が中国の歴史書に再び登場するのは400~470年頃の「倭の五王(5代に渡る天皇)」のことが書かれた「宋書」です。260~400年頃については倭国のことが書かれた中国の歴史書が無いので「謎の4世紀」と呼ばれています。そのため280年頃に大和朝廷がどのような経緯で誕生したのかが謎になってしまうのです。 しかし発想の転換をすれば、4世紀は謎でないばかりか、2~3世紀までさかのぼる伝承も残っています。その伝承こそ古事記(記)と日本書紀(紀)です。記紀神話は作り話だと決めつけて信用せずに、中国の歴史書だけに頼るから日本の古代史が「謎の4世紀」になってしまうのです。 記紀が編纂された経緯を簡単に紹介します。太安万侶(おおのやすまろ)が記した古事記序文のあらすじは次のようになっています。 【 第四十代天武天皇は、諸家に伝わる帝紀(ていき)と旧辞(きゅうじ)にはたくさんの異伝があるため、正しい内容を選んで後世に伝える必要があると考えた。そこで、一度目にしたものや耳にしたものを正確に再現できる能力を持つ稗田阿礼(ひえだのあれ)に諸文献のすべてを暗唱させた。 】 帝紀とは天皇の系譜や宮、陵などが記された書で、旧辞とは伝承や説話が記された書ですが、残念ながら現在はすべて失われています。また、稗田阿礼は記憶力抜群の異能者で、今で言うサヴァン症候群だったのかも知れません。 諸家に伝わる書の中には、奴国時代や邪馬台国時代からの伝承も含まれていたはずです。なぜならば第5回に記したとおり、魏志倭人伝には卑弥呼の官人が魏の国への感謝を「文書」で伝えたと記されていて、伊都国に漢字を使いこなせる官人がいたことが確実だからです。しかも、伊都国からは奴国時代の硯(すずり)が出土しています。官人は2~3世紀の倭国の歴史を書き残したと考えるべきでしょう。 天武天皇(生年不詳、686年没)の生前には古事記が完成しなかったため、第四十三代元明天皇(661年~721年)が太安万侶に対して、稗田阿礼から聞き取りをして完成させよと命じて、712年になって古事記は元明天皇に献上されました。 そして1979年に、奈良市の山間の茶畑から太安万侶の墓が偶然発見されました。墓からは名前と位階、養老七年(723年)に亡くなったことが記された青銅製の墓誌が出土しました。古代の墓誌が発見されることは極めて稀なことです。現在、太安万侶の墓は国の史跡に指定され、墓誌は国の重要文化財に指定されています。この墓誌が発見されるまでは、「太安万侶は架空の人物なので古事記は後世に書かれた偽書だ」という学者もいたのですが見当違いでした。しかし、「稗田阿礼が架空の人物なので古事記はやはり偽書だ」とする学者はまだいます。 漢委奴国王金印にしても古事記にしても、自説に都合の悪いものは何でも偽物にしてしまう学者がいます。逆に、偽物の旧石器を権威ある学者が本物と鑑定し続けて日本の旧石器時代の始まりを3万8000年前から70万年前までさかのぼらせた旧石器捏造事件がありました。神の手(ゴッドハンド)と言われた一人の考古愛好家が偽物の旧石器を埋めている現場を毎日新聞記者が取り押さえて捏造が発覚しました。権威ある考古学者と考古愛好家との連携が20年間にもわたったため、捏造した遺跡は160か所余りにも及び、捏造発覚後はすべて取り消されました。 なぜ本物の古事記を偽書としたのか、なぜ偽物の旧石器を本物としたのかの反省や再検証が今日でも十分に行われていないため、これからも同じようなことが繰り返されるように思います。先日、纏向遺跡から「卑弥呼も目にし、撫(な)でたかも知れない」犬の骨が出土したと発表されました(2025年4月22日の朝日新聞など)。すべての出土品は自説に合わせて解釈するためにあり、それらを自説の精度を高める検証には利用しない学者がいるのです。北部九州では鉄鏃や絹製品、後漢式鏡が出土し、奈良では出土しなくても、机上の解釈だけで乗り切ってしまうため、何が出土しても自説が揺らぐことは無いのです。果たして「卑弥呼の愛犬」説が正される日は来るのでしょうか。 さて、日本書紀は天武天皇の皇子の舎人親王や、紀清人、三宅藤麻呂らが編纂し、第四十四代元正天皇に720年に献上された書です。主に国外へ向けて大和朝廷の悠久の歴史を広報するための書で、大筋では古事記と同様の内容を記しています。日本書紀は古事記よりもずっと長い書で、しかも一書(あるふみ)として異伝を幾つも載せており、中には十種類の一書を載せている箇所もあります。一書とは古事記序文で言う「諸家に伝わった異伝」ではないかと思います。異伝と言っても本文を真っ向から否定するようなものではなく、同じ事象を別の諸家から眺めた様子が記されています。記紀を読む場合は、古事記だけでなく、日本書紀本文と一書群を合わせて読むと相乗効果で我が国の成り立ちが鮮明になると思います。 記紀は戦前戦中に、「我が国は神である天皇の治める国であり、臣民として命をかけて忠孝の誠を奉げなくてはならない」という皇国史観が強調され戦意高揚に利用されました。日本が敗戦すると反動により記紀は忌み嫌われるようになり、民主主義に反する悪書にされてしまいました。しかし、記紀を素直に読めば我が国の古代史を記した貴重な書であることがわかります。どの国も自国の歴史書を無視すれば謎の歴史になってしまうのは当たり前の話です。記紀神話は記紀実話であり我が国の優れた歴史書です。確かに天皇を中心とした国として記されてはいますが、紫式部の源氏物語に民主主義や男女平等を求めないのと同じ態度で読めばいいのです。 邪馬台国奈良説の学者が記紀を忌み嫌う理由がもう一つあります。魏志倭人伝に出てくる名前と、記紀の神の名には対応するものが多く、人物(神々)の行動が類似しています。魏志倭人伝と記紀神話は、同じ史実の別表現であるとしか私には思えないのです。そして記紀には、天津神一族や物部氏が九州から奈良へ東征して奈良の在地勢力を滅ぼして大和朝廷を興したことが記されているのです。だからこそ、邪馬台国奈良説の学者たちは不都合な真実が記された記紀の神話を作り話だとして抹殺しているのでしょう。 でも、この態度は私に言わせればとても奇妙なことなのです。邪馬台国奈良説の学者は奈良にあった邪馬台国が発展して大和朝廷(大和王権という学者もいます)になったと考えているので、いわば邪馬台国と大和朝廷の応援団のはずです。その大和朝廷自身が「大和朝廷は九州人が興した」と主張しているのに、そんな記紀神話は信用できないとしているのです。 これらの学者は卑弥呼が奈良の女王であったことは間違いないとする一方で、「あーら不思議、中国の歴史書に我が国のことが登場しなくなった謎の4世紀に、奈良にあった邪馬台国が大和朝廷(大和王権)に代わっていましたとさ、めでたし、めでたし」とする人たちなのです。これまで見てきたとおり、魏志倭人伝に記された方位や、鉄や絹、銅(鉛)などの数々の根拠を無視して自説に固執し続けた結果、こんなお粗末なことになってしまったのです。 もしかしたら邪馬台国は奈良であると思っている人たちは、「九州人が奈良の豪族を滅ぼして大和朝廷(大和王権)を興した」と記されていることにキキ感をいだき、「こんなん、作り話にせなアカンやろ!」と思っているのかも知れません(個人の感想です)。 これまで、記紀が優れた歴史書である点を強調してきましたが残念な点もあります。記紀にはその説話が「西暦何年」の出来事なのか、当然のことながら記されていません。しかも、百歳を超える初期の天皇が古事記では7人(最高齢は168歳)、日本書紀では12人(最高齢は140歳)もいるのです。記紀は年代が記されていない帝紀と旧辞を基に編纂されたと思われますが、明らかに年代が古い方へ延長され過ぎています。そこで記紀を読み解く際には説話の実年代を割り出すことが重要になります。しかし、記紀を無視する学者が実年代を割り出そうとするわけがありません。そこで頼りになるのが1967年に安本美典氏が上梓した『邪馬台国への道』(筑摩書房)に示された年代推定です。安本氏の年代推定は近年の研究としては唯一と言っていいだけでなく、論理的で説得力があり妥当だと思います。安本氏の年代推定は『日本誕生記2』(PHP研究所)や『古代年代論が解く邪馬台国の謎』(勉誠出版)などにも紹介されていますので参照してください。2024年に上梓された『「卑弥呼の鏡」が解く邪馬台国』(中央公論社)では年代推定がさらに補強されています。この連載では、安本氏の年代推定を利用して書き進めていきます。 ――――― 記紀の中身に入る前に、記紀では「倭」や「大和」「日本」のすべてを「やまと」と読ませている理由について、定説に加え私の推測も少しまじえて説明します。 まず、魏志倭人伝によれば、奴国時代(~180頃)や邪馬台国時代(180~280頃)に北部九州を中心とした諸国はまとめて、漢人により「倭国」や「倭人」、「倭」と記されました。これは漢人から「この国は何と言う名前なのか」と質問されて、九州人が「わ」の国だと答えたので、漢人は「倭(わ)」の漢字を当てたのです。「倭」の漢字は「従順、柔順」という意味がありますが、漢人は意味ではなく単に音韻を当てたのだと思います。九州人が答えた「わ」の意味は、「和」ではなく「輪」だと思います。「和」は音(おん)で「輪」は訓(くん)だからです。 「輪」は丸い形をした集落や地域、島、国を表わしています。古代の集落は福岡市の板付(いたづけ)遺跡などのように丸い形をした防御施設である環濠で囲って「内輪(うちわ)」を守っていました。また、大地震に見舞われた能登半島の「輪島」は古くは「倭島」とも記され、海から見ると丸い島のように見える様子から名付けられた地名と言われています。輪と島が同じような意味を担っています。さらに古墳の上には「埴輪」が並べられますが、「埴」は素材の赤土のことで、「輪」は古墳の周囲に巡らせて並べられる葬具の意味です。なぜ巡らせるかというと、聖域と俗界を区切って結界とする注連縄(しめなわ)と同じ役割だからです。 「輪」の意味は後世にも引き継がれていて、例えば城郭は曲がった(角をもつ)土塁や堀で囲われた防御施設である「曲輪(くるわ)」により内輪を守っています。安全地帯の曲輪に遊郭(ゆうかく)が設けられることもあったので、後に曲輪は遊郭の意味も持ちました。濃尾平野には木曽三川(きそさんせん)の洪水から集落や農地を守るための堤防に囲まれた「輪中(わじゅう)」があります。また、各地にある「箕輪(みのわ)」という地名は、丘などの地形によって農具の箕(み)のような半円形をしている集落に多く名付けられました。 極め付きは奈良県桜井市の三輪山と大神(おおみわ)神社です。大神神社の祭神は、大物主命(おおものぬしのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の3柱で、三輪山が御神体となっていて山中には3か所の磐座(いわくら)があります。 一方、福岡県筑前町(旧・三輪町)にも大己貴(おおなむち)神社があり、祭神は天照大御神、大己貴命、春日大明神の3柱で、同じく後ろの山が御神体です。大己貴神社は「大三輪社(おおみわ の やしろ)」とも、「大神様(おんがさま)」とも呼ばれています。投馬国を流れる遠賀川(おんががわ)は「大神川」を意味するのかも知れません。福岡の三輪の地名が奈良の三輪へと運ばれたと安本美典氏が指摘しています。 「みわ」を古語辞典で引くと「神(みわ)」が出てきます。「輪」は集落や地区、島、国に加えて、国を興して治めた「神」をも表しているようです。「三輪」は三柱の神々を表しているのでしょう。縄文遺跡や弥生遺跡から出土する貝輪、腕輪、耳輪、首輪(首飾り)などにも神が宿っているのかも知れません。 ――――― さて、飛鳥時代になると国の名前は「倭国」や「輪国」に代わって、和(なご)む、和(やわ)らぐ、和合するという意味を持つ「和国」が用いられるようになりました。聖徳太子の十七条憲法の第一条「和を以って貴しと為す」の音読みの「和」です。この国の政治はもともと独裁ではなく和合して治める国であったことは、卑弥呼が諸国の話し合いにより共立されて女王になった時も、天皇を中心として豪族が補佐する飛鳥時代でも変わりがありません。飛鳥時代ともなると漢字の知識が豊富になり、同じ音韻を持つ漢字の中から国名として相応しい漢字を「和人」が選び直したのでしょう。 魏志倭人伝によれば、倭国は諸国を含めた広い地域を指す国名ですが、筑紫平野にあった都の名前は邪馬台国です。「邪馬台国」も「倭国」と同様に、漢人から「王都は何と言う名前なのか」と質問されて、九州人が「やまと」の国だと答えたので、漢人は「邪馬台国」の漢字を当てたのです。九州人が答えた「やまと」の意味は「山ふところにいだかれた良き処(ところ)=山処」だと思います。古事記にも倭建命(やまと たけるのみこと)が奈良盆地を詠んだ和歌として「夜麻登(やまと)は国の真秀(まほろ)ば、畳(たたな)づく青垣、山籠(やまこも)れる夜麻登し麗(うるわ)し」と記されています。山ふところにいだかれた処は、海辺と比べて外敵から守りやすく安全な場所なので良き処なのです。後世にも西の守りの大宰府(だざいふ)は博多湾岸ではなく水城(みずき)という防衛線の奥の朝倉盆地寄りに築かれました。大宰府を山ふところにいだかれた内陸に設けたために、1019年の刀伊の入寇(といのにゅうこう)や、1274年と1281年の元寇(げんこう)の際に敵からの直接攻撃を受けずに済みました。 一般に「邪馬台国」を「やまたいこく」と読んでいますが、これは江戸時代の新井白石による読みが定着したためで、「やまとのくに」が正しい読みだと思います。「山処(やまと)」は筑紫山地と耳納山地に囲まれた福岡県の朝倉盆地(筑紫平野の北東部分)が起源であり、後に邪馬台国が奈良へ進出したため奈良盆地も「やまと」と呼ぶようになり、さらに後には我が国全体の名前として「やまと」と呼ぶようになったと思います。 福岡県柳川市とみやま市周辺は古代の山門県(やまとのあがた)でしたが、筑後川の南側であり朝倉盆地からは少々遠くなります。そのため、朝倉盆地には「やまと」という地名が残っていないではないか、という人がいますが、実は奈良にも古代までさかのぼれる「やまと」という地名は残っておらず、国全体の名前になっているだけなので同等です。 ――――― さて、最初の課題に戻って、「倭」や「大和」「日本」の漢字を「やまと」と読むのはなぜでしょうか。「飛鳥」を「あすか」と読むのは「飛ぶ鳥の安住処(とぶとりのあすか)」と枕詞(まくらことば)を付けて言う慣わしがあり、飛鳥も安住処も「あすか」と読むようになりました。また、「春日の霞処(はるひのかすみが)」で春日も霞処も「かすが」と読むようになりました。 同様に「日下(日本)の草処(ひのもとのくさか)」で日下も草処も「くさか」と読むようになりました。『月刊傍流堂』のクサカベクレスこと日下部吉信氏のクサカです。東大阪市に日下町(くさかちょう)があり、邪馬台国時代には大阪湾から日下町までは海が入り込む入江となっていました。東には生駒山地があり、生駒山から昇る朝日を仰げる地なので「ひのもと」なのです。また、福岡市中央区の大濠(おおほり)公園の南にも「草香江(くさかえ)」という地名があります。この地も邪馬台国時代には大濠公園から草香江までは海が入り込む入江でした。福岡市の早良平野からは三郡山地の若杉山から昇る朝日を仰げる「ひのもと」の地です。余談ですが、福岡勤務時代に同市の草香江にある行きつけのスナックで仕事仲間と酒を酌み交わしたことを懐かしく思い出します。 後の回でお話ししますが、福岡市の早良平野や若杉山は邪馬台国時代の重要な舞台となります。また、東大阪市の日下町は神倭伊波礼毘古命(かんやまと いわれひこ のみこと=神武天皇)の東征の舞台となります。二つの「くさか」はともに重要な役割を担うという共通項をもっています。そして、福岡の「くさか」の地名が大阪へと運ばれたと安本美典氏は指摘しています。 869年に完成した『続日本後紀(しょく にほん こうき)』に記された長歌(ちょうか:575757……577の形式をもつ和歌)に「日本乃野馬台能国遠/・・・」という部分があります。これは「日本乃」が5音の部分なので「ひのもとの」と読まれ、「野馬台能国遠」が7音の部分なので「やまとのくにを/・・・」と読まれていて、日本(ひのもと)が枕詞となり、野馬台(やまと)を修飾しています。このことから日本も野馬台も「やまと」と読むようになったことがわかります。 さらに、文献には出てきませんが「倭の邪馬台」、「輪(和)の山処(わのやまと)」と言う慣わしもあったと私は類推しています。このため、大きい倭=大和=日本なので、「倭」や「大和」「日本」のすべてを「やまと」と読むようになったと考えます。 ――――― それではいよいよ次回から、魏志倭人伝と記紀神話(記紀実話)とにある人名や内容に類似性があることを紹介し、邪馬台国時代のことがどのように記されているかを見ていきます。次に、邪馬台国はその後どうなったのか、大和朝廷はどのように誕生したのかについて見ていきます。邪馬台国問題も謎の4世紀問題も、目からウロコが落ちるように、我が国の優れた歴史書である記紀が解決してくれるのです。 高橋 永寿(たかはし えいじゅ) 1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。邪馬台国の会会員。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。



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