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第14回 ハイデガーは本当に性格が悪いのか?(2)

前回、「ハイデガーは本当に性格が悪いのか?」という小文を掲載したところ、これまでの連載のなかでもっとも多くの読者を集めたようだ。最近、ハイデガーの師フッサールが日本の雑誌『改造』に寄稿した論文の邦訳が刊行された。その訳者解説で、ハイデガーが師の論文を酷評しているレーヴィット宛ての手紙が紹介された[1]。それを契機として、ハイデガーの性格の陰険さがSNSなどで話題になった。それに対して私は、そこから単なる性格の悪さだけには還元できない両者の哲学的立場の根本的対立を読み取るべきだと主張した。ハイデガーは性格が悪いという風説に対して長年、疑問を感じていたので、前回の記事ではあえてそうした議論の一面性を強調したのである。

ハイデガーのフッサールに対する批評の激しさは、自分が世話になっている師匠の論文だからと手加減することなく、その哲学的真価を情け容赦なく判断するハイデガーの哲学的な厳格さに由来するという側面をもつ。したがって、それを単にハイデガーの性格の悪さに由来する「悪口」としてのみ捉えるのは、一面的な見方である。仮にハイデガーがあのような歯に衣着せぬ批評ができない人物だったとすれば、彼はわれわれが高く評価するような哲学者ではなかっただろう。ハイデガーにあれ以外の態度を求めるのは、彼が哲学的な本質において別人であることを求めることでしかない。

このように木田はハイデガーの思想を多くの人びとに近づきやすいものにしたという点では大きな功績を残した。他方において、木田の業績はハイデガーについての誤った、ないしは一面的なイメージを世間に定着させてしまったという副作用も伴っていたことは見過ごせない。そうしたイメージのうちのひとつが、ハイデガーは陰険な性格の持ち主だという捉え方である。木田は著書のなかで繰り返し、ハイデガーは哲学的思索においては偉大であるが、人間的には好きになれない人物だと吐露している。たとえば彼の代表作『ハイデガーの思想』では、彼に対する「アンビヴァレントな思い」を次のように表明している。

アンビヴァレントというのは訳しにくい言葉であるが、愛憎半ばするとでも言えばよいであろうか。それは一つには、いわゆるハイデガー信者たちが彼を神格化し、その片言隻句までもありがたがってうやうやしく引用したりするのを見ていると、一時期の自分を鏡に映すような気がして厭気がさし、それをハイデガーに転移したためでもあるらしい。ハイデガー自身にも晩年には、そうした信者を意識して、神秘的な雰囲気をまきちらしたり、思わせぶりなもの言いをしたりする節もあって、それも厭だった。むろんナチス加担の時期のいかにも時流に乗った言動や、表裏ある卑劣な行動が知られるようになってきた、ということもあった。正直言って、私はどうもこの哲学者の人柄は好きになれないところがある。[2]

前回の記事で取り上げたような、ハイデガーのレーヴィットやヤスパース宛ての書簡に見られるようなフッサールに対する陰口は、まさに「表裏ある卑劣な行動」の典型であろう。しかし木田は『ハイデガーの思想』ではそれらを取り上げていない。それに代わって、木田が同書でハイデガーの性格の悪さを示す事例として参照しているのが、ハイデガーとユダヤ人の詩人パウル・ツェラーン(1920-1970)の出会いと別れのエピソードである。

木田は両者の出会いをおおよそ次のように描写している。ツェラーンは1967年7月、ハイデガーのトートナウベルクの山荘を訪れた。その際、両親をナチスによって殺害されたツェラーンはハイデガーにナチス加担についての明確な謝罪を要求したが、期待した言葉が得られなかった。この「沈黙」に大きな失望を抱いてツェラーンは山荘を立ち去った――。木田はこの逸話から、ナチスの被害者の心からの求めに対しても謝罪を拒むハイデガーの薄情さを確認するのである。

私自身、長いあいだ、両者の関係については、この木田の記述をそのまま受け入れていた。しかしある機会に自分自身でハイデガーとツェラーンの交流について調べてみると、事実はそうした通説とはまったく異なることがわかった。以下では私の最近の調査で明らかになった内容を簡単に紹介しておきたい[3]

ツェラーンは1967年7月24日に、フライブルク大学において自身の詩の朗読会を行った。そして件の山荘訪問はその翌日の25日に行われた。朗読会はフライブルク大学のドイツ文学の教授、ゲアハルト・バウマン(1920-2006)が企画したものである。バウマンはツェラーンの信頼を得た友人であり、『パウル・ツェラーンの思い出』[4]という著作を残している。ツェラーンとハイデガーの交流についてわれわれが知ることの多くは、この著作を典拠としている。

木田が『ハイデガーの思想』でハイデガーとツェラーンの関係について語るときも、基本的にはこの資料を参照しているはずである。しかし奇妙なことに木田の『ハイデガーの思想』におけるこの件の記述は、バウマンの報告からは大きくずれている。木田は同書で、ハイデガーはツェラーンをトートナウベルクの山荘に招待し、それに応えてツェラーンは「翌25日から三日間を黒い森のただなかにあるこの山荘で過し、二人は真正面から向き合うことになった」と述べている[5]。これはまったくの誤りで、ツェラーンがハイデガーの山荘に三日間も滞在したという事実はない。25日の朝、バウマンの助手のゲアハルト・ノイマンが運転する車にハイデガーとツェラーンが同乗し、山荘に向かった。バウマンは大学で試験があったため、あとで山荘の近くの集落ザンクト・ブラジエンのカフェで落ち合うという約束であった。ハイデガーとツェラーンはバウマンとの待ち合わせ時間が迫っていたため、山荘にはほとんど滞在することなく、そこを立ち去ったのである。

今述べたことは、バウマンの『パウル・ツェラーンの思い出』にはっきりと記されている。二人が三日間、山荘で一緒に滞在したなどという記述はどこにも見当たらない。木田は何を根拠にしてこのようなことを述べたのだろうか。まったく謎である。これだけにとどまらず、木田の本件についての報告はとにかくいい加減で誤りが多い。たとえば木田による次の記述も最初から最後までまちがいだらけである。

二人のあいだで実際にどのような言葉が交わされたのか明らかではないが、ついにツェラーンはユダヤ人を焼き尽くした「死の風」について、果たしてハイデガーが当時から知っていたかどうかを問い糺したらしい。これにハイデガーは沈黙で答えたのだろうと推測されている。ハイデガーからの謝罪の一言を期待し、この出会いになにかをかけていたらしいツェラーンは深い幻滅をいだいて山荘を去ることになったし、山荘の門のかたわらでそれを見送ったハイデガーは、「ツェラーンは病気だ、もう治る見込みはない」と冷たくつぶやいたという。[6]

木田が『ハイデガーの思想』を刊行した1993年以降に﹅﹅﹅出版されたツェラーンとその妻ジゼルの往復書簡集や、ハイデガーとツェラーンのドライバーを務めたノイマンの自伝などを参照すると、決定的な対話は山荘に向かう車中でなされたことがわかる。しかもその対話は、ハイデガーがナチス加担の件に話を向けるような形で始まっている。そしてツェラーンも少なくとも対話の直後は、その対話の内容にかなりの満足を示しているのである。

ただ今述べたことは、木田が『ハイデガーの思想』を執筆したときにはまだ公表されていなかった資料に基づいているので、木田がそれについて触れていないことを責めるのは酷である。しかし彼が参照したはずのバウマンの『パウル・ツェラーンの思い出』にも、バウマンが待ち合わせ場所のカフェに到着したとき、ツェラーンがハイデガーと機嫌よく談笑しているのを見て驚いたという記述が見出される[7]。つまりツェラーンは深い幻滅を抱いて山荘を去ったわけではなく、むしろ上機嫌でそこを離れている。しかも、そもそもハイデガーが山荘でツェラーンを見送ったという事実もなく、むしろ彼と一緒にバウマンとの待ち合わせ場所のカフェに車で向かっているのである。

したがって、ハイデガーが山荘の門のかたわらで――そもそもトートナウベルクの山荘に門などないのだが――、ツェラーンを見送りながら「ツェラーンは病気だ、もう治る見込みはない」などとつぶやいたということもない。そもそもこの言葉はハイデガーが別の機会にバウマンに対して﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅発したものである。その状況は次のとおりである。

1970年3月26日、ツェラーンはバウマン宅で朗読会を行った。そのときにはツェラーンの精神状態はかなり不安定で、朗読会の最中にツェラーンがハイデガーの無理解に怒りだすといったこともあった。バウマンが朗読会の終了後、ハイデガーを自宅まで送ったときに、ハイデガーが自宅の門前でバウマンにもらしたのが、上述の「ツェラーンは病気だ、もう治る見込みはない」という言葉である[8]。それはハイデガーが山荘でツェラーンを見送るときに述べたものではない。木田の説明とは時期も状況もまったく異なるのだ。

以上で見たように、木田はハイデガーとツェラーンの出会いについて、それに関するもっとも基本的な一次資料であるバウマンの『パウル・ツェラーンの思い出』に書かれている内容をことごとく歪めて伝えている。木田はこうした事実に反したでたらめのストーリーに基づいて、ハイデガーの人柄に問題があることを示唆するのである。それに対してバウマンの回想録を実際に読んでみると、そこから浮かび上がってくるのは、ハイデガーがツェラーンに対して薄情だったどころか、それとはまったく逆に、ハイデガーが心を病んだ詩人に対してその回復のために気遣っている姿である。

先ほども述べたとおり、バウマンは1967年にフライブルクでツェラーンの朗読会を行うことを企画した。かねてより詩人がハイデガーに関心を抱いていたことを知っていたバウマンは、ハイデガーに参加可能な日程を問い合わせた。ハイデガーはそれに対する返事で次のように書いている。

私は長いあいだ、パウル・ツェラーンと知り合いになることを望んでいました。彼ははるか遠く前に立っており、最大限の自己抑制を保っています。私は彼についてすべてを熟知しています。深刻な危機についても知っています。彼は一個の人間に可能な限りで、自分自身をそこから引き戻したのです。貴殿はこの観点において、当地での朗読会が助力となることを正しく捉えておられます。7月24日が私にとってもっとも都合のよい日程です。(…)/パウル・ツェラーンにシュヴァルツヴァルトを案内できたら、よい癒しになる(heilsam)でしょう。[9]

ここで「深刻な危機」と言われているが、ツェラーンは1967年1月に自殺未遂を起こしたばかりであった。当時は入院中だったが、許可を受ければ外出できるようになったため、バウマンに以前から打診されていたフライブルクでの朗読会を行ってもよいと伝えてきたのである。

ツェラーンの心の病が、ナチス時代のユダヤ人としての過酷な経験に由来することはハイデガーもよく知っていた。手紙で彼についてすべてを知っていると述べているのはこの点に関わっている。そのうえでハイデガーはツェラーンがフライブルクを訪れることが、彼の病の癒しに寄与することを望んでいる。そもそもハイデガーが自身のナチス加担についてツェラーンと話し合うつもりがなければ、その点を問いただしてくることが当然予想されるツェラーンにわざわざ会う必要はなかった。というのも、そこで下手な対応をすれば、ツェラーンの病状をかえって悪化させることにもなるからだ。逆にハイデガーがツェラーンに直接会って、彼の癒しのために助力したいという意向を示しているのは、彼がこの問題についてツェラーンと話し合う覚悟をもっていたことを意味するだろう。

ハイデガーの関心が一貫してツェラーンの「癒し」に向けられていたことは、引用箇所の末尾の「シュヴァルツヴァルトを案内すればツェラーンの癒しになるだろう」という文言にもはっきりと示されている。これはハイデガー自身が戦後の非ナチ化の審査によるストレスで精神的にダウンしたときに、バーデンヴァイラーという保養地にある療養所に滞在し、森の中をただ歩き回ることで癒された経験を念頭に置いている。

実際、バウマンの回想録では、ハイデガーがツェラーンのフライブルク来訪に際して、ツェラーンに対して最大限の気遣いを示したことが報告されている。ハイデガーはツェラーンの訪問に先立って、自分と親しい書籍販売業者を介してフライブルクの重要な書店に、ツェラーンの詩集をショーウィンドウの目立つところに展示するよう依頼した。朗読会の当日、市内を散策したツェラーンは至るところで自分の詩集が飾られているのを見て、大いに気をよくしたという[10]

フライブルク大学の大教室で行われた朗読会は1200人の聴衆を集め、大成功を収めた。その後、ツェラーン、ハイデガー、バウマンはホテルに戻り、懇談した。ハイデガーはこの会談中に、翌朝みんなでシュヴァルツヴァルトに出かけることを提案した。ツェラーンは高層湿原を見たいと希望し、ホルバッハ湿原を訪ねることになった。またその際に、ツェラーンをハイデガーのトートナウベルクの山荘に案内することも決められた[11]。このように山荘への招待も、ツェラーンの拒絶反応を引き出さないようにきわめて慎重に行われたのである。

こうして先ほども述べたように、バウマンの助手ノイマンが運転する車にツェラーンとハイデガーが同乗し、山荘に向かう車中で決定的な対話が行われた。ノイマンの報告によると、自身のナチス加担が話題になるように水を向けたのはハイデガーであった。もとよりツェラーンもこの話をハイデガーにぶつけるつもりでフライブルクに乗り込んでいた。ハイデガーはこのことを予期して、ツェラーンがその話を切り出せるようにおぜん立てをしたのである。このように通説とは異なり、ハイデガーはナチス加担について話すことを避けていない。それどころか、自分からあえてツェラーンとそのことついて話す場を設定しているのだ。

ツェラーンはハイデガーの誘いに乗る形で滔々としゃべりだした。両者の対話の具体的な内容は残念ながら報告されていない。ただノイマンの報告によると、ハイデガーは越えることができない限界内においてツェラーンを納得させることができ、またツェラーンもハイデガーにその人間性と誠実さを納得させた。そしてノイマンは両者の対話について、お互いの立場が明確になったことが、ここで起こりえた最大の成果だったと総括している[12]

これだけの情報からは、両者が具体的にどのようなことを話したのかはわからない。しかし少なくとも、二人のあいだで一定の対話が成り立っていたことはたしかである。したがって、ハイデガーがツェラーンの問いかけに対して「沈黙」によって応じ、ツェラーンはそのことに失望したという通説は誤りである。とにかくツェラーンは対話に満足し、フライブルクを離れたあとしばらくしてからも、周囲の人間が不思議がるほどに上機嫌であったという。

しかしツェラーンの抱いた希望はやがて失望に変わった。ツェラーンはハイデガーがナチス加担についての反省を公に発表することを期待しており、彼との対話でそのことが約束されたと思っていたのである。しかしハイデガーはそのようには捉えていなかった。彼からすると、「存在の思索」における「主体性の形而上学」との批判的対決それ自体が、自身のナチス加担に対する自己批判という性格をもっていた。したがって、彼は自身の哲学的活動とは別に謝罪や釈明をする必要を認めていなかった[13]。ここに二人の大きなすれ違いがあった。

1970年にバウマン宅で行った朗読会で、ツェラーンがハイデガーに対してあからさまに苛立ちを示したのも、ツェラーンの精神状態の悪化とともに、ハイデガーに対する失望がその背景にはあった。ハイデガーがバウマンに「ツェラーンは病気だ、もう治る見込みはない〔=癒しようがない〕(heillos)」と述べたのは、このときのことである。ハイデガーのツェラーンとの交流は、ハイデガーがツェラーンの癒しに何らかの仕方で寄与できればという思いからはじまった。そして癒しが困難であることの認識が、両者の関係の終わりとなったのである。

以上で見てきたように、ハイデガーとツェラーンの交流に関するもっとも基礎的な資料であるバウマンの『パウル・ツェラーンの思い出』から読み取れるのは、最終的には悲劇的なすれ違いに終わったものの、ナチスによって傷ついたユダヤ人の詩人ツェラーンに対するハイデガーのこのうえない細やかな気遣いである。これらの事実から、ハイデガーが「いい人」だったと結論づけることは性急かもしれない。しかし少なくとも、ここからハイデガーは性格が悪いという結論を導くことはいかにせん無理だろう。逆にそれでもハイデガーは性格が悪いと言い張るのであれば、木田のように、そうした事実はすべて無視するほかないだろう。

木田はこれまで長いあいだ、日本におけるハイデガー哲学の受容のあり方に大きな影響を与えてきた。ハイデガーは性格が悪いというイメージも、木田の紹介によって広まったところが大きい。しかし上で見たように、木田がハイデガーの人柄の悪さを示す事例として持ち出しているハイデガーとツェラーンの出会いについての記述は、事実とはまったく異なっている。その事実からの乖離の度合いは、単なる不注意によるミスという次元を超えて、ハイデガーは性格が悪いという結論にあわせた創作としか言いようがない域にまで達している。われわれはハイデガーの性格の悪さについて語る前に、そうした通説が実はこのようないい加減な根拠に基づいて唱えられていることにも思いを致す必要があるだろう。


[1] エトムント・フッサール『『改造』論文集成 革新の現象学と倫理学』植村玄輝・鈴木崇志・八重樫徹・吉川孝訳、講談社学術文庫、2025年、341頁。

[2] 木田元『ハイデガーの思想』岩波新書、1993年、23頁以下。なお以下で同書から引用する場合、内容に影響しない範囲でテクストの字句を適宜変更した。

[3] なおハイデガーとツェラーンの関係についてより詳しいことを知りたい方は、拙著の以下の箇所をご参照願いたい。轟孝夫『ハイデガーの哲学 『存在と時間』から後期の思索まで』講談社現代新書、2023年、419~430頁。

[4] Gerhart Baumann, Erinnerungen an Paul Celan, Frankfurt am Main, 1986.

[5] 木田元『ハイデガーの思想』、5頁。

[6] 木田元『ハイデガーの思想』、5頁。

[7] Gerhart Baumann, Erinnerungen an Paul Celan, S.80.

[8] Gerhart Baumann, Erinnerungen an Paul Celan, S.80.

[9] Gerhart Baumann, Erinnerungen an Paul Celan, S.59f.

[10] Gerhart Baumann, Erinnerungen an Paul Celan, S.66.

[11] Gerhart Baumann, Erinnerungen an Paul Celan, S.68.

[12] Gehrhard Neumann, Selbstversuch, Freiburg im Breisgau, 2017, S. 319.

[13] ハイデガーがなぜ公的な「謝罪」を頑なに拒んだのかについては、拙著で詳しく論じたのでそちらを参照されたい。轟孝夫『ハイデガーの哲学』、429頁以下。


轟 孝夫 経歴

1968年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
現在、防衛大学校人文社会科学群人間文化学科教授。
専門はハイデガー哲学、現象学、近代日本哲学。
著書に『存在と共同—ハイデガー哲学の構造と展開』(法政大学出版局、2007)『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書、2017)『ハイデガーの超‐政治—ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い』(明石書店、2020)、『ハイデガーの哲学—『存在と時間』から後期の思索まで』(講談社現代新書、2023)などがある。

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