第八話 ふたつの求婚
「とはいえ、父はそなたを邸に縛りつけるつもりはない。いい縁があったら、大切にしたいと考えているよ」 「誰かと一緒になることなど、考えられません。私には、釣り合う人がなかなか見つかりませんもの。伊勢に行かせてください」 「帝がいらっしゃるではないか。もう一度、入内を前向きに考えてみなさい。父は、そなたよりも先が短いだろう。真白には頼りになる後見が要る。帝なら、きっと真白のことを細やかに見てくれる」 入内の話がまた出てきたので、真白は耳を塞いだ。 「帝には、すでに女性がたくさんいらっしゃいます。その中のひとりになるなんて」 「真白なら、帝に愛されるはずだよ。帝は、歌や琴にお詳しい。自分の腕がどこまで評価されるか、試してみないか。後宮では歌会や宴がある。もっと広いところで、父もそなたの才を見たい。この邸に留め置くのはもったいない気がするのだ」 真白は息を止めた。 ――自分の、歌と、琴を? 全身に震えが走った。誰かに読まれたり、聴かれたりする? そう思うだけで、頬が熱くなった。 「恐れ多いです。私の歌や琴を讃えられたら嬉しく思いますが、厳しい声もあるはずです。耐えられません。私はこの邸で、父さまと語り合えたら、それでよいのです」 重明は真白の手をそっと握った。父の両手はいつの間にか骨張って、乾いていた。年を取っていた。 「帝のおそばで、後宮で、この上なく素晴らしいものを見たら、真白は変われる。ときには苦しいこともあるかもしれないが、そなたなら、千年後も語り継がれる歌の詠み手になれると信じている」 ――千年? 途方もない。 「柿本人麻呂、大伴家持、在原業平、紀貫之……都の外に行き、鄙の春夏秋冬、人々の暮らしを知った歌人たちだ。伊勢に行った真白も、それに連なる才を秘めている」 「これといった歌は、まだ詠んでいません」 「いいや、読ませてもらったよ。これを」 父が懐から取り出したのは、照葉がまとめた伊勢での古い書きつけ……真白の反故の束だった。 「なによりも大切な真白の心が、たくさん記してあった。伊勢では風を頬に受け、木々のざわめきを聴き、山を見て、月に照らされて暮らしたのだね。逆さまの都? おもしろいね。斎宮寮の人々と古今集を詠唱したり、文を交わしたりしたようだね」 捨てて欲しかったあの反故が、褒められた。 ただの古い紙束だったのに、照葉は表紙をつけて丁寧に製本していたようで、重明親王の手の中にあっても堂々としていた。 「伊勢から戻ってきて学んでゆくうちに、さらに真白の才はよく伸びた」 「……そうでしょうか」 真白の口からは頼りない声が漏れた。 「それに、特に帝は七弦の琴の弾き手を探しておられる。琴が好きな真白なら、お忙しい帝の御心をやわらげる人に、なれる」 「……できません。こんな私ですもの」 「正直、父がそなたに教えられることは、もうほとんどないのだよ。しかし、帝なら真白をまっすぐに評価してくれる。この邸で朽ち果てるか、困難も承知で大海へ出るか。そなたのきょうだいがおっとりしているから、余計にそなたに期待を寄せてしまう、父の身勝手だと思ってくれて構わないよ。なに、この邸の家政ならなんとかする。心配無用だ」 覚えず、真白は頬に右手を当てていた。琴を奏でる大切な手を。 「そなたは皇統と藤原氏の血、双方をひいている姫だ、自信を持ちなさい」 目を瞑った真白は、昨年の大嘗会御禊の行列を思い出す。 村上帝の御姿は眩しく、真白の胸に強く刻みつけられている。 この頼りない身が、あの御方のおそばに上がる……きらきらと輝く、向こうの景色に飛び込む……できるだろうか。
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