第21回 名前を消されたハイデガー(1)
前回の記事で、数学界における権威ある賞、ロルフ・ネヴァンリンナ賞の名称が、2018年にIMUアバカス・メダルに変更されたことを取り上げた。その賞の名の由来となったフィンランドの数学者ロルフ・ネヴァンリンナが第二次世界大戦中にナチスに協力していたことが問題視されて、そのような人物の名前は賞にふさわしくないとされたためであった。 本連載ではこれまでもたびたび、ハイデガーのナチス加担に対する風当たりが2010年代以降、強まったことに触れてきた。そうした状況のなか、実はハイデガーに対してもネヴァンリンナと同じような名誉剥奪が行われた。ハイデガーの自宅があったフライブルク市には彼の名前を冠した遊歩道マルティン・ハイデガー・ヴェーク(以下、ハイデガー・ヴェークと略)が存在したが、2020年にその道の名称からハイデガーの名前が外されたのである。これは1933年のナチスによる政権獲得直後に、彼がナチス支持者としてフライブルク大学の学長に就任し、ナチスの宣伝に一役買ったことが重大な過失と見なされたことによる。 もっとも通りの名称の変更は、ハイデガーの名前のついたものだけが対象となったわけではない。フライブルク市にあるおよそ千三百の道路すべてについて、その名称の適格性の審査が行われた。その結果、12の通りの名称が変更されることになった。そのうちのひとつがハイデガーの自宅近くにある遊歩道マルティン・ハイデガー・ヴェーク(Martin-Heidegger-Weg)であった(なおドイツ語で「通り」を意味する語は“Straße”であり、“Weg”は“Straße”よりも整備が劣った未舗装の道というニュアンスをもつ)。 2010年代に行われたフライブルク市の道路名の再検討については、報告書『フライブルクの道路名の検討委員会最終報告書』が刊行されている[1]。本記事ではこの報告書に即して、ハイデガーの名前が通りから外された経緯を見ていくことにしたい(以下、この報告書の参照箇所はカッコ内に頁数のみを記す)。 報告書の序論によると、個々の道路名に関する問い合わせ、苦情、地域的運動を受けて、市議会は2012年に市内のおよそ千三百にのぼるすべての道路名について、その学問的な再検討と基準の策定を行うことを決議した。この措置によって、「フライブルク市はみずからの歴史の暗い側面に向き合い、歴史学的な解明作業を行うことを意志する」。これに基づいて、歴史学者フォルカー・イルゲン(1954-)に市の道路名すべての検討とそのうちの問題事例の資料整備が委託された。そして彼を支援する諮問会議(7名)が設置され、そこではイルゲンの作成した検討基準に基づいて調査の討議や評価、修正が行われた(p.2)。 諮問会議の座長にはフライブルク大学名誉教授で歴史学者のベルント・マルティン(1940-)が指名された。彼はハイデガーとナチズムの関係を扱った著作を上梓したこともあった(『ハイデガーと「第三帝国」』ダルムシュタット、1989年)。諮問会議は3人の女性を含んでおり、ジェンダー・バランスを意識した構成となっている。委員会(イルゲンと諮問会議委員から構成)の最初の会合では、そこに出席していた市の文化局長が「歴史的、倫理的、政治的基準に基づいてすべての名称を検討すること」を要望し、「評価基準ないしは行動指針の策定」を希望した。検討の基準は「少数派の迫害、独裁制、軍国主義、ナショナリズム、国粋主義、植民地主義、反ユダヤ主義への関係」であることが望ましいとされた(p.3)。 報告書はドイツの他の都市における似たような試みと比較して、フライブルクの手続きが独自の性格をもつことを強調している。他の都市においてはナチズム時代に関係するものだけが問題にされているのに対して、フライブルクではすべての道路名が学問的な検討の対象とされる。また検討を担う委員会の構成についても、他の都市では学者ではない公人や公文書館に委嘱されたのに対して、フライブルクではメンバー8名のうちすべてが学者(歴史学者6名、社会学者、政治学者それぞれ1名)である。そのことによって、フライブルクでは以後の議論全般において何よりも歴史学的な論証が優先されることになった (pp.3-4)。 ちなみに道路名の再検討が決議されたとき、市議会は緑の党が第一党で、キリスト教民主同盟(CDU)、社民党(SPD)がそれに続く議席数を確保していた。また市長も緑の党に所属していた。このように進歩派が優位を占める政治情勢のもと、彼らは道路名の再検討をとおして、自分たちの「政治的正しさ」の理想に基づいて市の歴史の書き換えを推進しようとしたのであろう。「政治的正しさ」を貫徹しようとする本プロジェクトの高い志は、ナチズムや反ユダヤ主義のほかに女性差別や植民地主義への関与をも含んだ評価基準の現代性と包括性、歴史学者を中心とする学者に検討を委ねることによる学問性の担保、さらには女性委員の積極的な登用などに示されている。 委員会で市側から要請された暫定的な評価基準については上ですでに見たが、その後の審議を経て最終的に以下の五つの基準が採用された。(1)国民社会主義、ないしは国民社会主義の不正国家を指導的な地位から積極的に促進すること、(2)知の伝播者として相応の影響力をもつ人物による攻撃的な反ユダヤ主義、(3)理論と実践の両者、ないしはそのどちらかにおける極端な人種主義、(4)第一次世界大戦の賛美(背後からの一突き伝説[2])という形を取った軍国主義、(5)極端で反時代的な女性敵視。以上を要約すると、道路名の再検討においては国民社会主義、反ユダヤ主義、人種主義、軍国主義、女性敵視への関わりが問題にされるということである(p.6)。 これらの基準に従って問題事例を洗い出し、個別の事例それぞれについて、対処が必要か不要かという観点から、三つのカテゴリーへの分類が行われた。その三つのカテゴリーは、カテゴリーA=重大な負い目あり、維持不能(通りの名称の変更)、カテゴリーB=議論の余地あり、部分的に負い目あり(通りの名前は維持するが、説明標示を付ける)、カテゴリーC=問題なし、である。 カテゴリーAにはハイデガー・ヴェークを含めて12の道路名が指定された。報告書にはそれぞれの通りについての所見が収録されている。所見にはその道路名が定められた日、その際の根拠、当該者の名前・職業・役職、簡単な経歴、カテゴリーへの分類根拠、改称案が順に記されている。以下ではとくにハイデガー・ヴェークの所見の内容を見ていくことにしたい。 その所見によると、ハイデガー・ヴェークは1981年秋に命名された。その命名の経緯については次のように説明されている。1976年のハイデガーの死後、彼は全世界で追悼され、フライブルクにも通りに彼の名前を付けるべきだという声が起こった。しかしハイデガー夫人は自宅近辺にそのような巡礼場所を設けることを拒んだ。その代わりに、彼の自宅があるツェーリンゲン地区の遊歩道をハイデガーにちなんで命名するという案が採用された。 この命名に対して報告書は次のような評価を加えている。このようにハイデガーの顕彰が行われたときには、まだ大学公文書館の文書が未公開であったため、彼が「国民社会主義者の最初の大学学長」であったことについての批判的検討は着手されていなかった。その後、フーゴ・オット(1931-2022)によるハイデガーの伝記や諮問会議委員ベルント・マルティンの研究により、ハイデガーの政治的な役割や思想的確信の再検討が始まった。この再検討は「反ユダヤ主義的な攻撃」を含んだハイデガーの個人的な覚書、「黒いノート」の刊行によって最高潮に達した。哲学者たちはこの「黒いノート」の刊行後になってようやく、歴史学者によってつねに提起されてきたハイデガーの哲学と彼の政治的直観の相互作用への問いに真剣に取り組むようになったが、まだ決定的な答えは出ていない(p.42)。 この記述が言わんとするところは、ハイデガー・ヴェークの命名時点では、ハイデガーのナチス加担の全貌や、そうした政治的活動と彼の哲学との関係が資料的な制約からまだ十分に把握されていなかったために、ハイデガーの名前を通りに冠するという今日ではありえない判断が下されてしまった、ということだろう。この箇所には、歴史学者の警告にも関わらず、哲学者たちがハイデガーのナチス加担を直視しようとしなかったことへの不満も表明されている。オットやマルティンなどの歴史学者たちが1980年代からハイデガーのナチス時代の行動について問題提起を行ってきたにもかかわらず、哲学者たちは2014年の「黒いノート」の刊行によって彼の反ユダヤ主義的な覚書が白日の下にさらされるまで重い腰を上げなかったというのである。 さて、それではこの所見においてハイデガー・ヴェークの改称はどのように正当化されているだろうか。その点を次に見ることにしよう。正確を期して、この箇所については全文を訳出しておく。 ハイデガーが哲学者として世界的名声を誇るにしても、ドイツの大学のナチ化において彼が決定的な役割を果たしたことは疑問の余地がない(「指導者体制」)。また歴史学的な調査において、ハイデガーが1945年までナチ党の最上層部の保護を受け、また国民社会主義と彼自身の「過ち」からは一度も明確に距離を取らなかったことが十分に確証されている。彼はフランス占領軍によって教職禁止処分を受け、1957年になってようやく、大学記念祝典(500周年)の際に公的な復権を遂げた。今ではさらに、ハイデガーの手紙の証拠に基づいて、彼が第一次世界大戦以来、ドイツの民族的‐国民主義的再生(völkisch-nationale Wiedergeburt)に賛同しており、その再生は彼が1933年に宣揚したラディカルな形態においては、国民社会主義の野望をはるかに超えていたことが示されうる。(p.43) 以上の根拠をもって、委員会は全員一致でハイデガー・ヴェークの改称に賛成した。報告書では改称案も示されている。それは命名が行われた1981年にもすでに検討されていた案でもあるが、散策路を「哲学者の道」と名づけて、補足の標識でハイデガーとその同僚だったエトムント・フッサール、さらにヨナス・コーン(1869-1947)[3]に言及するといったものである[4]。 それはそうと、委員会が示した改称の理由づけは妥当だろうか。そこではハイデガーがナチ化において決定的な役割を果たしたことが指摘されている。これはカッコ内に注記されているように、彼が学長在任中に大学に「指導者体制」を導入したことを指している。この指導者体制とは、州文部大臣が学長を指名し、学長が学部長を指名するトップダウンの体制を意味する。これによって教授会から学長と学部長を指名する権限が剥奪され、大学の自治が完全に消滅した。 ハイデガーはたしかにこの指導者体制の導入に積極的だった。しかし彼の意向にかかわらず、指導者体制はナチ支配下の大学においては、どのみち実施されたものである。また大学への指導者原理の導入については、ナチズムに反対していたカール・ヤスパースでさえも賛意を示している[5]。大学に指導者原理を取り入れることは、ワイマール時代から大学改革をめぐる議論において唱えられていた。したがって1933年に指導者体制が実施されたとき、このことは大学改革論者にとっては自分たちが長年抱いてきた構想の実現という意味をもっていた。もちろんその意図がどうであれ、この指導者原理の導入が結果的に大学のナチ化を促進したことは否定できない。それゆえハイデガーもその責任を免れることはできないだろう。 所見ではさらに、ハイデガーが1945年までナチ党の最上層部の保護を受けていたことが指摘されている。しかしこの点にも疑問がある。フーゴ・オットによるハイデガーの伝記を読むと、彼の論文の刊行に対する妨害が政治的介入によって退けられるなど、個別の事例において権力者へのコネクションが彼に有利に働いた事例が見られないわけではない[6]。しかし彼のことを一貫して庇護する高位の人物がいたことは、同書からは確認できない。ベルント・マルティンの著作にはまだ目を通していないが、もしかすると、そこにはこの点についての情報が記されているかもしれない。 ただハイデガーがナチ党高官の保護を受けていたのであれば、どうして彼が1944年秋に国民突撃隊(Volkssturm)に招集されたのかという疑問は残る。彼は迫りつつある連合軍の侵攻に備えるための塹壕の構築に駆り出された。フライブルク大学は彼を動員から免除するようナチ党の有力者に嘆願した。しかしその嘆願が効果を発揮する前に、彼は医師の診断書によって除隊を認められたのだった[7]。こうした事例を見ても、ハイデガーに有力者の特別な庇護が働いていたようには思えない。 また報告書では、ハイデガーが国民社会主義と自身の過ちから一度も距離を取らなかったと言われている。これもどうだろうか。彼は学長を辞任したのち、ナチスの学術政策に対する批判をただちに展開している。自分がせっかく哲学的に正しく根拠づけられた学問刷新の方向性を示したのに、ナチスがそれを理解せず、旧来の学問観にしがみついているという趣旨の批判である。やがて1930年代終わりになると、彼はナチズムを「主体性の形而上学」の完成形態として位置づけるようになる。つまりハイデガーの後期哲学を特徴づける西洋形而上学の克服をめぐる思惟は、それ自身ナチズムとの思想的対決という意味をもっていた[8]。こうしたナチズムに対する批判はそれ自身、自分がかつてナチズムの本質を見誤っていたことに対する自己批判という意味をもつ。つまり彼は自身の「過ち」から十分に距離を取っていたのである。 報告書はハイデガーが第一次世界大戦以来、「民族的‐国民主義的な再生」を支持していたことを指摘する。ここで「民族的」と訳した語は、ドイツ語では“völkisch”である。この「フェルキッシュ」という語は19世紀の後半から急進的な民族主義者のあいだで使用されるようになった。フェルキッシュ運動は「血と大地」に根ざしたドイツ民族の根源的なあり方に立ち返ることを目指すものであり、基本的に反ユダヤ主義を伴うものだった。ナチズムもこの運動の系譜に属しており、フェルキッシュという言葉を好んで使用したため、この語は人種主義的な意味合いを帯びるようになった。そのため戦後になると、この言葉はナチス的な用語として使用が避けられるようになった。 また「民族的‐国民主義的な再生」というときの「国民主義的」、すなわち“national”が「国民社会主義」、“Nationalsozialismus”の“national”であることは言うまでもない。所見の執筆者はハイデガーが「フェルキッシュで国民主義的な再生」を支持していたと言うことで、彼の思想がナチ的であったことを強く示唆しているのである。とはいえ、ここの記述は両義的でもある。というのも所見では、ハイデガーが考える「フェルキッシュで国民主義的な再生」はナチズムの野望をはるかに超えるラディカルさをもっていたとも言われているからである。つまり報告者は、ハイデガーの立場がナチズムとまったく同じではなかったことを認めているのである。 実際、ハイデガーは終始一貫して、人種を民族性の唯一の規定要因と見なす人種主義に対しては批判的であった。それに対して彼が民族の真の根拠と考えたのが、まさに「存在(Sein)」である。それゆえ彼が「フェルキッシュで国民主義的な再生」を支持していたという場合、彼にとってその具体的内実は、「存在」によって規定された共同体を建立することでしかなかった。ナチズム運動をこのような「存在」を基礎とする真正な民族概念へと教え導くことこそが、彼のナチス加担の根本動機であった。 歴史学者が公文書館に収蔵された史料を調査して、いろいろな事実を明るみに出してくれることは、われわれ哲学研究者にとっても大変ありがたいことである。しかし今も見たように、歴史学者はハイデガーの思想内容に対する基本的な理解を欠いている。そのため、彼の哲学的言説に示されたナチズムに対するスタンスも正確に捉えることができていない。もっとも彼らは哲学的思惟の分析を専門とするわけではないから、そうなるのも仕方がないところがある。それよりもはるかに嘆かわしいのは、多くの哲学者がハイデガーとナチズムの関係について歴史学者を超えた見識を示すことができず、むしろ彼らの平板な捉え方に何の疑問もなく追随していることであろう。 [1] Abschlussbericht der Kommission zur Überprüfung der Freiburger Straßennamen, 2016. https://www.freiburg.de/pb/site/Freiburg/get/params_E1314141498/2470457/Strassennamen_Abschlussbericht.pdf [2] 第一次大戦におけるドイツ帝国の敗北の責任はドイツ軍ではなく、国内で革命を起こした社会主義者やユダヤ人にあるとする説明。右派や保守派はこの伝説をワイマール共和体制や左派の攻撃に利用した。 [3] 新カント学派に属する哲学者、教育学者。1897年フライブルク大学助手、1919年同員外教授、1933年職業官吏再建法により停職、1939年にイギリスに移住した。 [4] ただし実際にはこの案は採用されず、現在、通りの名称はオーベラー・ハルブックヴェーク(Oberer Harbuckweg)となっている。 [5] ヴァルター・ビーメル/ハンス・ザーナー編『ハイデッガー=ヤスパース往復書簡 1920-1963』渡邊二郎訳、名古屋大学出版会、1994年、243頁。 [6] フーゴ・オット『マルティン・ハイデガー 伝記への途上で』北川東子、忽那敬三、藤澤賢一郎訳、未來社、1995年、421頁以下。 [7] 同書、438頁。 [8] 拙著『ハイデガーの超‐政治 ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い』明石書店、2020年、「第二章 ナチズムとの対決」を参照。 轟 孝夫 経歴 1968年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
現在、防衛大学校人文社会科学群人間文化学科教授。
専門はハイデガー哲学、現象学、近代日本哲学。
著書に『存在と共同—ハイデガー哲学の構造と展開』(法政大学出版局、2007)、『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書、2017)、『ハイデガーの超‐政治—ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い』(明石書店、2020)、『ハイデガーの哲学—『存在と時間』から後期の思索まで』(講談社現代新書、2023)などがある。
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