第18回 風土記と神賀詞の全文が残っている理由
奈良時代の713年に第四十三代元明天皇は「風土記(ふどき)」の編纂を諸国の国司(地方長官)に命じました。風土記は、律令制度を整える基礎資料とするために、諸国の地名や地勢、特産品、伝説などを報告させたものです。天皇の命に応じてすべての諸国から風土記が献上されたはずですが、現存する風土記は「出雲、豊後(ぶんご)、肥前、播磨(はりま)、常陸(ひたち)」の5書のみで、このうち全文が残っているのは「出雲国風土記」だけです。この他に、他の文献に引用されたためにわずかな部分だけが逸文(いつぶん)として残った風土記がいくつかあり、第9回に紹介した「伊予国風土記」や「阿波国風土記」も逸文として残っています。 【 出雲国風土記は、概要である「総記」に加え、「九郡の地勢」と「巻末記」から成る。九郡とは、意宇(おう)、島根、秋鹿(あいか)、楯縫(たてぬい)、出雲、神門(かんど)、飯石(いいし)、仁多(にた)、大原であり、各郡の郷里名、道路、駅名、神社、特産品、伝説などが記されている。 出雲国風土記には、記紀には無い短い伝承や地勢が記されていていますが、物語性のある説話は多くありません。その中で、「国よ来い」と言って綱で引き寄せて領土を拡大する「国引き神話」は出雲国風土記を特徴づける躍動感のある物語です。このうち、高志の都都岬(能登の珠洲岬)を引き寄せ三穂崎とした物語は、珠洲(能登)と三穂(出雲)の結び付き、すなわち美穂須須美命(みほ すすみのみこと)と大国主命との結婚を暗示していると思います。 もう一つ出雲の様子がわかる書に「出雲国造神賀詞(いずもの くにのみやつこの かんよごと)」があります。これは律令施行細則である「延喜式(えんぎしき)」(927年成立)に全文が残っています。出雲国造は高天原の天津神である天穂日命の子孫の世襲制になっていました。新任の出雲国造の任命式は、奈良にある太政官(だじょうかん)で行われました。任命式が終わると新任の出雲国造は直ちに出雲国に戻って潔斎(けっさい)――神の前で禊(みそぎ)をして心身を清めること――を1年間続けた後に再び奈良に赴き、吉日に天皇の前でこの出雲国造神賀詞を奏上しました。出雲国造神賀詞のあらすじを次に示します。 【 新たに出雲国造に任命されたため天皇に申し上げます。大八嶋を治めている天皇の御代の長久を寿ほぎます。出雲国の神殿に鎮座している伊邪那岐命の御子である最も尊い熊野大神である櫛御気野命(須佐之男命)と、出雲国を開拓した大穴持命(大国主命)の二柱をはじめとして、国中に鎮まっている皇神のすべてを寿ほぎ、神賀詞(かんよごと)を奏上します。 出雲国造神賀詞についての大方の説は、出雲国造が大和朝廷への「服従」を誓う儀式の台詞(せりふ)であるという見方です。これは新任の出雲国造が奈良へ何度も赴いたり、潔斎を1年間続けたりして、天皇側が出雲側へ大きな負荷を命じていることから想像された見方だと思います。 また、記紀によれば、天之菩卑命は大国主命に取り込まれて三年経っても高天原に復命しなかったため、高天原は次々と神々を派遣することになったと記されています。一方、出雲国造神賀詞では、天之菩卑命が御子の天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)などとともに出雲に国譲りを働きかけ続けた結果、出雲の国譲りが実現したと記されています。そして、その功績が認められて、出雲国造は天之菩卑命の子孫の世襲制になったのです。このように後世の扱いを見れば、天之菩卑命は三年で高天原から命ぜられた任務を放棄した訳ではなく、それ以上の年月をかけて大国主命を説得し続けたことがわかります。出雲国造の出自に関する重要事項なので、出雲国造神賀詞の方が記紀よりも経緯を良く表現しているのです。 ところで、神社は全国に8万社余りもあると言われています。21世紀の世にこれだけ多くの神社が維持されていると思うと大和民族のエネルギーのすさまじさを感じます。8万社のうち大国主命や建御名方神などの出雲の神様を祭神とする神社は約1万社もあります。例えば、三輪、氷川、日枝、須賀、大国魂、大物主、諏訪などの各神社です。そして、残りの約7万社が主に高天原の神々や皇統の祭神になります(由緒未詳の祭神も含みます)。出雲の神様は一つの地方としては格段に多くの神社が全国に分祀(ぶんし)されていると言えます。 高橋 永寿(たかはし えいじゅ) 1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。邪馬台国の会会員。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。
「出雲国風土記」は国司である出雲臣廣嶋(いずものおみ ひろしま)によって編纂され、733年に大和朝廷へ提出されました。出雲臣廣嶋は高天原から天降りした天穂日命(あめのほひ)の直系の子孫で、出雲国造と意宇郡大領を兼任していました。出雲国風土記のあらすじを次に示します。
神須佐乃烏命(かん すさのおのみこと:須佐之男命)の説話が数か所に短く記されている。娘の名は和加須世理比売命(わか すせりひめのみこと:須勢理比売)である。天乃夫比命(あめのほひのみこと:天之菩卑命)は意宇郡の項に登場する。出雲国風土記にしか登場しない八束水臣津野命(やつか みずおみずのみこと)は、八雲立つ出雲の国は狭いので、遠くにあった志羅紀(しらぎ:新羅)の岬を「国よ来い」と言って綱で引き寄せて支豆支(きずき:杵築)崎とした。同様に海側の岬を引き寄せて狭田国や闇見国とし、高志の都都岬(つつみさき:能登の珠洲岬)を引き寄せて三穂崎とした。
出雲国風土記で最も偉大な神は大穴持命(大国主命)で、所造天下大神(あめのした つくらしし おおかみ)と称された。記紀と同様に、各地の姫との結婚の説話があり、和加須世理比売命、奴奈宜波比売命(ぬなかわひめのみこと:沼河比売)などと結婚することにより領土を広げた。大穴持命の御子は阿遅須枳高日子命(あじすき たかひこのみこと:阿遅鉏高日子根神)である。大穴持命が高志を平定して出雲に戻った時に、「我が造った国は天皇に国譲りするが、八雲立つ出雲だけは青垣山を巡らし魂置きして鎮守する」と宣言した。
神魂命(かんむすひのみこと:造化三神の一神である神産巣日神)は大穴持命の宮(出雲大社)の詳細な設計を行った上で造営を命じ、神魂命の御子の天御鳥命(あめのみとりのみこと:天夷鳥命)を楯縫郡の楯部に任命した。】
出雲国風土記には須佐之男命はほとんど登場せず、大穴持命(大国主命)が主役であり「天下を造った大神」と讃えられています。また、須佐之男命と大国主命との血縁関係は記紀と同様に良くわからず、大国主命は出雲出身の国津神だったとして矛盾は生じません。大穴持命は結婚により、宗像から、新潟、大阪までを領土として拡大させたことが記紀と同様に記されています。その後、大穴持命が高志(越)を平定して出雲に戻った時に「私が造った国は高天原に譲るが、出雲だけは神殿を立てて私が鎮守する」とやや唐突に宣言します。
出雲国風土記は、天穂日命の直系の子孫である出雲臣廣嶋が編纂しました。つまり、出雲臣は、大国主命の子孫ではなく、高天原の天津神の子孫であり、高天原の後身である大和朝廷と同族です。すべての諸国から献上されたはずの風土記の中で唯一「出雲国風土記」の全文が残っている理由は、出雲臣にとって重要な書は、同族である大和朝廷にとっても重要な書であり、大切に保管され続けてきたからでしょう。
高天原の高御産巣日神が天津神の天穂日命へ「出雲に国譲りさせよ」と命じた時に、出雲臣の祖の天穂日命が出雲の国土を検分して、「豊葦原の瑞穂の国である出雲は猛烈に荒れていますが、必ず服従させ皇孫が統治できるように致します」と応え、天穂日命は御子の天夷鳥命(あめの ひなどりのみこと)と布都怒志命(ふつぬしのみこと)とともに大穴持命に国譲りを働きかけました。すると、大穴持命は心穏やかに国譲りをすると誓いました。
大穴持命は国譲りに当たって条件を示し、「大穴持命を倭大物主櫛厳玉命(やまと おおものぬし くしいつたまのみこと)と称して大三輪社(奈良の三輪山)に祀ること、御子の阿遅須伎高孫根命(あじすき たかひこねのみこと)を鴨の社(奈良県御所市の高鴨神社)に祀ること、事代主命を宇奈提(うなて)に祀ること、賀夜奈流美命(かやなるみのみこと)を飛鳥の社に祀ること」と述べました。高天原はこれらのすべての条件を受け入れたので、大穴持命は「皇孫の守護神となる」と宣言して出雲国杵築宮(出雲大社)に鎮まりました。
高御産巣日神は天穂日命に対して、皇孫の長久を守護するとともに御代を繁栄させるよう命じられました。このことを出雲国造は代々伝えて日々お祈りを続けています。 】
しかし、私はこの見方には賛成できません。なぜならば、この見方は出雲国造が高天原の天津神である天穂日命の子孫であることを見逃しているからです。天津神である出雲国造は、出雲出身の国津神である大国主命の子孫ではないのです。このため、出雲国造の任務は、大国主命の御霊を鎮めることにより、天皇の御代の長久を守護して寿ぐことです。中国地方や北陸地方に加えて大阪の一部をも支配していた強大な国津神の大国主命の御霊が皇孫に祟ることなく、むしろ皇孫の守護神となり続けていることを、天皇と同族である出雲国造が監視すること、すなわち出雲大社に鎮まる大国主命を丁重に斎き祀る(いつきまつる)ことなのです。
新任の出雲国造が任命式の直後に出雲国に戻って潔斎を1年間続けるのは、出雲国造の任務を実践できる能力が試されているのです。このため、1年間潔斎を実践した後の神賀詞の奏上は、出雲国造にとって実践能力が認められて正式に出雲国造に任命される晴れがましい究極の「任命式」であるため、「服従の儀式」ではないのです。「出雲国造神賀詞」の全文が残っている理由は、「出雲国風土記」とまったく同じで、出雲国造だけに止まらず大和朝廷にとっても、重要な書として大切に保管され続けてきたからでしょう。出雲国造にとっても大和朝廷にとっても、畏怖すべき大国主命を丁重に鎮護することが大和朝廷の安寧を保証する共通の利益になるのです。
出雲の国譲りについての記紀の説話は第17回に記したとおり、大国主命が「私のために立派な神殿を建て、事代主神が天津神に仕える立場になるのなら、豊葦原の瑞穂の国を天津神に譲ろう」と条件を示しました。それに対して高天原はこの条件を受け入れて、出雲大社を創建しました。
ところが、神賀詞に記されている条件は、出雲大社の創建だけでなく、大物主命と名前を変えて奈良の三輪山に祀ることや、御子まで奈良に神社を創建して祀ることなども加わっています。これらの条件がすべて高天原に受け入れられたので、大国主命は「皇孫の守護神となる」と宣言して出雲大社に鎮まっているのです。
三輪山のふもとにある大神(おおみわ)神社は大和朝廷によって創建された以降も、倭迹迹日百襲姫(やまと ととひ ももそひめ)が巫女となるなど、手厚く鎮護されて今日に至っています。大国主命が出した条件は、大和朝廷が編纂した記紀よりも、出雲国が編纂した出雲国造神賀詞の方が詳しく伝承されていると言えます。
さて、旧暦の10月は和風月名で「かんなづき」と言います。『新明解 古語辞典』(三省堂 監修:金田一京助 編者代表:金田一春彦)をひもとくと、『かむなづき【神無月】(語誌「かむ(神)な(格助)月」で「無」はあて字)陰暦十月の異称』と説明されています。この辞典の凡例を読むと、「語誌」とは、その語の成立した由来の解説であり、「格助」とは、「格助詞」の略であるとあります。「格助詞」とは、名詞などに付いて述語などとの関係を示す品詞のことです。つまり、「神無月」は「神の月」を意味し、稲などを収穫する時期に当たり神へ感謝する祭りの月というのが本来の意味であると推察できます。そして「神無月」と表記されるようになったのは平安時代以降ではないかとも言われています。同様に、旧暦6月の「みなづき(水無月)」も、水の無い月ではなく、 梅雨の時期で田んぼに水を張る「水の月」の意味だと推察できます。
しかし、中世以降になると「無」の字に引きずられて、「神様はみんな出雲に出張してしまうので、出雲以外の神社からは神様が居無くなってしまう月だ」という説が生まれ、出雲だけは「神在月(かみありづき)」と呼ばれるようになりました。出雲大社でも古くから神無月に「神迎祭(かみむかえさい)」や「神在祭(かみありさい)」、「神等去出祭(からさでさい)」などの神事が行われており、遅くとも近世には広く知られるようになったと考えられています。しかし「神在月」は後からできた言葉なので、少なくとも三省堂の『新明解 古語辞典』には載っていません。
天穂日命の末裔である出雲大社の宮司は、今でも大国主命の御霊が皇孫に祟ることなく、むしろ皇孫の守護神となり続けるように丁重に斎き祀っていることと思います。しかし、当て字から始まった説であっても長い間に定着して、神無月には出雲以外の神社の神様が留守になってしまうと、ちょっと心配なことがあります。新暦の11月15日の前後はほぼ毎年、旧暦の神無月に当たるので、七五三のお祝いで近くの神社に参拝しても神様はご不在なのではないかという心配です。でもこれは杞憂であり、あくまでも神無月は「神の月」であり、神様はいつでもご在宅であると私は信じることにします。
この連載の第1回に書いたように、邪馬台国はどこにあったのかという問題は、とっくの昔に解決していると思います。魏志倭人伝にある「鉄」や「絹」の技術も、「鏡、剣、勾玉の三種の神器」や「鬼道すなわち神道や神社」の文化も、みんな北部九州にあった邪馬台国から奈良へと運ばれたと考えられるからです。それにもかかわらず、世間では未だに「邪馬台国は奈良の纒向説が有力です」などと言われているのは、古墳の発掘で名声を得た考古学者たちが纒向説を主張し続けて一向にその旗を降ろさないからです。この説は、邪馬台国を奈良にするために自由自在に古墳時代を約100年早めて「古墳からの出土品は邪馬台国時代の遺物である」とお墨付きを与えることで成り立っています。「奈良は始めから日本の中心だったはずだ」という先輩学者からの思い込みを無批判的に踏襲する考古学者たちの自作自演で成り立っている説なのです。本当は3世紀の近畿の遺跡周辺からは銅鐸などが出土するだけなので、苦肉の策として「鉄、絹、鏡、剣、勾玉」がザクザク出土する宝の山である4世紀の古墳を3世紀に繰り上げて辻褄を合わせているというのが実態です。
「神在月」という後からできた言葉が定着しているように、「邪馬台国は纒向にあった」ことが国民の間に定着してしまえば、有力説から定説となり歴史的事実になってしまうことを心配しています。4世紀の天皇の宮殿跡と見られる纒向遺跡が、3世紀の卑弥呼の宮殿と古く見られることは、この遺跡にとって名誉なことなのでしょうか、それとも迷惑なことなのでしょうか。
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