プロローグ 食と美味の真を求めて
『美味求真』は1925年(大正14年)、政治家であった木下謙次郎が、膨大な文献に当たりつつ、歴史的観点から「食における本質」とは何かを描き出そうとした書籍である。100年前に出版された書籍ではあるが、普遍的な「食」に対する深い洞察が書かれており、その内容は現代においても色褪せてはいない。 わたしは本書の現代語訳を手がけるなかで、たとえ料理そのものや食べ方、消費のスタイルが大きく変化したとしても、食における本質的な部分は何ひとつ変わらないのだという事実に、あらためて気づかされた。木下謙次郎は、この書を通して、そうした不変の価値を明らかにしようとしていたのである。 食の哲学 木下謙次郎の文章をたどっていくと、「美味求真」とは、単にフィジカル(肉体的)に美食によって舌や腹を満足させることではなく、むしろフィロソフィカル(思想的)なアプローチによる「美味」の追求であることが見えてくる。わたしは、「美味求真」という言葉に含まれる「真」の一字にこそ、その核心となる意味が込められていると考え、それを強く意識しながら現代語訳を進めてきた。そして、この核心にあるものこそが「食の哲学」なのではないかという思いを深めていったのである。 「食の哲学」という言葉は、決して人に伝わりやすいものではない。なぜなら、食とは生命を維持するための根源的かつ日常的な行為であり、多くの人はそれをフィジカルな側面から捉えることはあっても、思想の対象として考え続けることはほとんどないからである。ある人は料理の味を楽しむために、またある人は空腹を満たすために、あるいは健康維持や体力増進のために食を消費する。また現代では、自身の食べた食事やレストラン情報をSNSなどで公開することで、他者と食の体験を共有するという二次的な消費も行われるようになっている。しかし、これら有形・無形の消費行動はいずれも、あくまでフィジカルな次元における「食」との向き合い方にとどまっている。わたしたちは毎日欠かすことなく「食」と接していながら、実のところ「食そのもの」について深く考える機会は驚くほど少ないのである。 わたしは、この「食の哲学」こそが、先に述べた「食における本質」と重なり合うものであると考えており、それが一体どのようなものなのかを、ぜひ木下謙次郎の『美味求真』を通して、多くの人に理解してもらいたいと願っている。また本書を読むことで、食の背景や文化について考えるきっかけを得てほしいとも思う。『現代語訳 美味求真』の出版目的は、まさにそこにある。 食の本質、食の未来 さて、これからの連載でわたしが書こうとするのは、『美味求真』が示した、食における価値観の「これから先の100年」についてである。過去100年を超えて読み継がれてきた本書は、さらにその先の未来においても、変わることなく価値を持ち続けるに違いない。『美味求真』は、過去の歴史を振り返りながら、食の本質がどこにあるのかを問い続けてきた書である。そうした先人の築いてきた価値観を理解し、その先を考えることこそが、現代に生きる我々に課せられた役割なのではないか。 我々は伝統を守ると同時に、伝統を打ち壊していかなければならない。一見矛盾するように思えるが、これは決して相反する行為ではない。「温故知新」という言葉が示すように、我々は古きものを知ることで初めて新しいものを生み出せるようになるし、新しいものを理解するためには、古くからあるものをまず深く知らなければならない。つまり未来について語るためには、より深く過去を理解していなければならないのである。もしそれなくして伝統を打ち壊そうとするのであれば、それは単なる破壊にすぎず、そこから新しく生み出されるものは、軽薄で深みのない、独りよがりなものに堕してしまうだろう。 この考え方は、食における価値観の未来を語る際にも同様である。だからこそわたしは、過去を語ることから始め、未来へと視線を向ける姿勢で、食文化と食の哲学を論じていきたいと考えている。なぜなら、その立場をとることで、わたしの語る食の未来はより高い説得性を持ち、同時に読者がその根拠を検証できるようにもなるからである。 学術の世界には「巨人の肩に立つ(Standing on the shoulders of giants)」という常套句がある。これは先人の業績や積み重ねられてきた知の歴史を土台として、新たな発見や創造を行うという意味である。人類は、そうした積み重ねの上に、わずかな一枚を積み重ねることで、遅々としながらも確実に前進してきた。わたしもまた、そうした先人の積み上げてきたものに敬意を込めつつ、その上に一枚を積むことを試みたいと願っている。 言うまでもなく、木下謙次郎の『美味求真』は、その試みにおける「巨人」のひとつである。さらに過去の多くの文献もまた、食の価値観を現代に伝える巨人として存在している。わたしはこうした書物の数々を引用・紹介しながら、我々が将来に積むべき一枚とは何かを探求すべく、『美味求真』の今後100年を考えてみたいと思うのである。 求真するということ 最後に、「求真」という言葉について触れておく。現代では「きゅうしん」と読まれるが、かつては「ぐしん」とも読まれていた。その意味は文字どおり「真を求める」ことである。わたしはこの「真」こそが、物事の本質や哲学的核心であると捉えている。そしてそれは過去に属するものにとどまらず、むしろ未来につながるものであるはずだと考えている。「真」の探求とは、過去と将来をつなぐ(ブリッジ)ことであり、そのためには過去から学びインプットしたものを、将来に向けてアウトプットしなければならない。つまり「求真」とは、過去から連綿と続けられてきた探求であると同時に、その先にも継続されるべき探求への姿勢を示す未来志向の言葉なのである。 この連載が、食に関する伝統的な価値観を理解すると同時に、それを打ち破る新たな価値観を生み出すためのヒントとなれば幸いである。我々は、伝統のコアにあたる部分――建物にたとえるなら心柱となる哲学や本質――を守り続けなければならない。その一方で、その心柱を残したまま、将来に向けて伝統を更新し、ときには打ち壊していく必要がある。我々は将来のために、新たな価値観となるさらなる一枚を積まなければならないが、それは表層的な伝統の部分の上ではなく、コアとなる心柱の上でなければならないのである。 『美味求真』が出版された1925年から100年を経て、日本人の食習慣や価値観は大きく変化した。木下謙次郎は、今日の食の姿を具体的に想像することはできなかっただろう。しかし彼は、食の哲学と本質というコアは将来においても決して変わらないという確信を抱いていたに違いない。そういう意味において、木下謙次郎の「求真」は常に未来志向であったとも言える。そしてわたしは、初版から100年という時を経た2025年に『現代語訳 美味求真』を刊行したことによって、彼の抱いたその姿勢と確信をあらためて証しすることができたのではないかと考えている。 『美味求真』を出版した傍流堂の「月刊傍流堂」という場で、『現代語訳 美味求真』の100年先を考えることには大きな意義がある。なぜなら傍流堂もまた、『美味求真』のなかで追究されている本質が「食の哲学」であること、さらにはそこに普遍的な価値があり、現代においても読まれるべきものであることを理解し、現代語訳を世に出す決断した出版社だからである。 よってわたしはこれから、「食の哲学」を掘り下げつつ、食の将来と本質、さらに食における価値観とは何かを、本連載を通して明らかにしていくこととしたい。 ※タイトル画像背景:髙山辰雄「食べる」(1973年、大分県立美術館蔵)。著作権者の許可を得て使用 河田容英(かわだ・やすひで) 一九六九年(昭和四十四年)生まれ。大学生向けの海外留学支援企業・株式会社ログワークス代表取締役。また社会人ビジネスパーソンがイギリス国立大学や欧州大学のMBA(経営管理学修士)およびDBA(経営管理学博士)を取得するための教育企業・エグゼジャパンビジネススクールの代表を務める。自然言語処理の研究にも従事し共著論文多数。イギリス長期滞在時に幾つもヨーロッパのレストランを訪ね、海外での食と文化に数多く触れる機会を得たことや、帰国後に海外諸国と日本の食文化の相違、類似、ありかたを思想的視点から捉えなおすようになったのを機に、二〇一六年より郷里の政治家・木下謙次郎の著書『美味求真』の現代語訳に着手しウェブサイトで公開を始める。その後、『美味求真』に注釈を付すという方法で食にまつわる文化、歴史、哲学に関する記事を発信し続けている。
https://www.bimikyushin.com/
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