第18回 『存在と時間』という落とし穴
ハイデガーの主著『存在と時間』の人気が相変わらずだ。拙著『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書)は2017年に刊行されたが、ほぼ毎年増刷されており、現在では第9刷まで版を重ねている。インターネット書店で商品の動きを見ていると、同書の最近の売れ行きは刊行後、八年経った今の方が前よりもよくなっている感じさえする。電子書籍は値付けがフレキシブルで時おり大幅な値引きセールがなされることがある。先日、一日限定で『ハイデガー『存在と時間』入門』が大幅割引の対象となったとき、アマゾンが配信する電子書籍kindle版の全書籍のランキングで瞬間的に40位という、これまで見たことがない高い順位がついていた(平時は10,000位を割ることさえめったにない)。 このような拙著の人気は、ハイデガーの哲学に対する人びとの高い関心を示しているように見えるかもしれない。しかし『ハイデガー『存在と時間』入門』の好評を受けて、ハイデガー哲学の全体像を示す「決定版」として2023年に上梓した『ハイデガーの哲学』(講談社現代新書)は期待していたほどの反響は得られなかった。同書の売れ行きはいまだに前著『ハイデガー『存在と時間』入門』にはるかに及ばない。この経験から私が思い知らされたのは、読者はハイデガーの思想そのものよりは、むしろ『存在と時間』という哲学書に多大な関心を抱いているということである。読者は『存在と時間』を哲学書の最高峰として崇めており、そうした難解な書物に挑戦している私というイメージを慈しんでいるかのようなのだ(この点については、本連載第1回「SNS映えする哲学書としての『存在と時間』」を参照)。 『存在と時間』は一見すると、緻密に構成された完成度の高い書物であるように見える。しかし同書は実際のところ、ハイデガーが形成途上の思想を論文として公刊することに幾度か失敗した挙句に、正教授に昇任するために確固たる業績を出さねばならないという圧力のもと、泥縄式に書き上げられた粗の目立つ書物である[1]。それは言うなれば、増築、改築を繰り返したつぎはぎだらけで行き当たりばったりの温泉旅館のような代物でしかない。 『存在と時間』は当初は一冊の書物として刊行される予定であった。しかしその前半部の原稿を印刷所に回したあとに、ハイデガーは残りの部分の書き換えに着手する。このことにより後半部の原稿が大幅に増えてしまい、とても一巻には収まりきらなくなってしまった。そこで彼は書き換えた部分の一部をすでに印刷していた原稿と併せて上巻として刊行したうえで、残りを下巻として出すことにした。 こうして『存在と時間』の冒頭で同書の目標として予告されていた「存在の意味」の解明も下巻に持ち越されることになった。しかしハイデガーは下巻をただちに刊行しなかった。この段階に至って、彼は『存在と時間』の構成に根本的な欠陥があることに気づいたのである。 『存在と時間』下巻においてその意味が開示されるはずであった「存在」は、その生起において人間――ハイデガーの言うところの「現存在」――を巻き込み、そのあり方を規定するものである。現存在は「存在」の生起のうちにおのれ自身を見いだしており、それゆえ「存在」の生起のありさまこそが現存在の実質をなしている。そうだとすると、現存在の本質は「存在」の解明によってはじめて十全に示されることになる。 『存在と時間』は現存在の分析から出発して、現存在のあり方を規定する「存在」にアプローチするという方法を取っている。上巻において、まさにこの現存在の分析が展開されている。しかし今も述べたように、現存在の本質は元来、「存在」よって規定されている。そうである以上、現存在のあり方の解明は「存在」そのものの解明を前提にすることになる。そうだとすると、現存在のあり方をまず解明して、それに基づいて「存在」を解明するという『存在と時間』で採用された段階的な手続きは成り立たないのではないか。むしろ「存在」の解明によって現存在のあり方も同時に示されるのだとすれば、「存在」の解明を優先すべきではないか。 ハイデガーは『存在と時間』の下巻で「存在」を主題的に解明する段階に至ったとき、今述べたような方法論的な瑕疵に気づいたようである。下巻における「存在」の解明によって、前半部で行われた現存在の分析が不要であることが明らかとなる。しかも現存在を通路として「存在」へと至るという『存在と時間』の手続きは、ハイデガーがその克服を目指していた近代の超越論的主観性の哲学、すなわち「存在」を主観的意識の構成物と捉えるような立場とも区別がつきにくい。 以上のような理由から、ハイデガーは『存在と時間』の上巻で展開した現存在の実存論的な分析は、その元来の意図に反して、それ自身が「存在」という事象への接近を妨げるものと見なすようになった。このように『存在と時間』の方法論的破綻を見て取った彼は、同書を書き継ぐことを断念する。いわば増築、改築でその場しのぎをすることが限界に達し、建物をその土台から建て直す必要性を認めざるをえなくなったのである。 こうしてハイデガーは『存在と時間』の刊行後、数年経った1932年9月には、友人のエリーザベト・ブロッホマンに対して、同書を書き継ぐことを次のようにはっきりと否定する。 人びとがそう考え、すでにうわさしていることにしたがえば、私は今『存在と時間』下巻を書いているとのことです。それはそれで結構です。しかし『存在と時間』上巻はかつては私にとってひとつの道であり、それは私をどこかに導くものでしたが、この道は今となってはもう歩まれておらず、すでに草ぼうぼうになっているので、『存在と時間』下巻はもう書き継ぐことはできません。私はそもそもいかなる本も書きません。[2] 結局、『存在と時間』は未完のままに終わってしまった。そのため同書の序論でハイデガーがその解明を謳っている「存在への問い」に対する答えは、既刊部分で示されることはなかった。ハイデガーが「存在」ということで何を問題にしようとしていたのかは、『存在と時間』以降の仕事においてはじめて明かされる。それゆえ『存在と時間』で問われていた「存在」が何を意味するかを知るためには、『存在と時間』を離れて、それ以降の彼の思索の歩みを参照しなければならないのである。 このようにハイデガー自身がさじを投げた失敗作を後世のわれわれはハイデガーの「主著」と呼び、また「20世紀最大の哲学書」として持ち上げている。もっともこのような『存在と時間』に対する誤った崇拝も、多くの人びとにとってはハイデガーの思想に興味をもつきっかけになっているのだとすれば、このことにそれほど目くじらを立てる必要はないのかもしれない。振り返れば、私自身も『存在と時間』を何とか読み解きたいという一心でハイデガーの勉強を始めたのである。 しかしハイデガーの哲学に長年取り組んで、「存在」が何を意味するかについて一定の見通しが得られるようになると、『存在と時間』の過大評価が「存在の思索」の理解にもたらす弊害の大きさも次第に見過ごせなくなってきた。こうして拙著『ハイデガーの哲学』の巻末に付した「読書案内」では、ハイデガーを読む際に『存在と時間』から出発することは避けて、それよりもあとの時代に書かれた著作に取り組むことを推奨したのである。 もっともハイデガーの思想を学ぶときに、『存在と時間』以外の著作から手を付けろというのが非現実的な要求であることは私自身も承知している。たとえば大学の哲学科に在籍している学生がハイデガーについて卒業論文を書く場合、ほぼすべての学生が『存在と時間』を研究対象にするであろう。そして彼らが『存在と時間』を取り上げる場合、時間的、能力的な制約から『存在と時間』以外の著作に目配りすることはなかなか難しい。そうすると研究はどうしても『存在と時間』の内容をまとめるといったものにならざるをえない。 しかしこのように『存在と時間』の既刊部分だけに依拠して論文を仕上げようとすると、そこでは現存在の分析だけが示されているので、論文の内容もいきおい同書を人間学として解釈するものになりがちである。そのことと裏腹に、同書の本来の趣旨である「存在への問い」は視野の外に置かれてしまう。しかも問題は、いったんこうした人間学的な解釈にはまりこんだ学生はたいていの場合、生涯そこから抜け出せなくなるということだ。 このことは現役のハイデガー研究者を見れば明らかである。彼らの多くが『存在と時間』やその周辺の思想だけしか取り上げず、それ以降の思索にはあまり関心を示していない。また後期の思想を扱う場合も、それを『存在と時間』の思想とは断絶したものとして論じるのが常である。これは彼らが『存在と時間』を人間学として解釈しているために、ハイデガーが同書刊行後、実際に「存在」の解明に取り組むようになったとき、そこで何か異質のことがなされているように感じられることによる。あろうことか、多くの研究者は『存在と時間』の人間学的解釈を基準として、そうしたハイデガーの「存在の思索」をわけのわからないものだと非難しさえするのである。 ただいくら『存在と時間』を人間学として解釈するといっても、同書は元来、人間学として書かれたものではない。そのため『存在と時間』で展開されている現存在の記述は、同書を人間学として扱う研究者から見ても、人間学としての体系性、包括性を欠いているように感じられてしまう。彼らがとりわけ不満を抱くのは、『存在と時間』における人間の共同性や他者関係の取り扱いである。というのも、同書では本来性が単独性と結びつけて語られる一方で、公共性、共同性は現存在の非本来性のうちにのみ見いだされているかのように見えるからである。 実際のところ、ハイデガーは「存在」に基づいた真正な共同性も想定しているので、今述べたような理解は誤りである。しかしいずれにせよ、多くの読者が『存在と時間』においては、現存在にとって重要な共同性や他者関係の契機が正当な扱いを受けていないという欲求不満をもっている。そしてハイデガー研究者はしばしば、そのような欠落をハンナ・アーレント、カール・レーヴィット、エマニュエル・レヴィナスといったようなハイデガーの影響を受けた思想家による公共性や他者性をめぐる議論によって補おうとする。そもそもそうした思想家自身がハイデガーの『存在と時間』を人間学として捉えたうえで、そこに欠けているものを補うという自負をもって自己の哲学を展開している。日本でも和辻哲郎が同じような視点から、独自の倫理学を打ち立てたことはよく知られているだろう。 これらの思想家たちはハイデガーの哲学をもっぱら人間学として捉える反面、彼の「存在への問い」に対する理解はまったく持ち合わせていない。こうした「存在への問い」に対する無理解という点では、彼らの業績を人間学として捉えられたハイデガー哲学の欠落部分を補完するものとして持ち上げる今日の研究者たちも同断である。1990年代以降、アーレントやレヴィナスの研究が急速に盛んになるが、そうした研究の隆盛は『存在と時間』の人間学的解釈が生み出したあだ花でしかない。「存在への問い」の意義を真に理解していれば、ハイデガーの哲学を人間学として継承する「ハイデガーの子供たち」の哲学的な反動性は覆うべくもない。 このようにハイデガー研究者のほぼすべてが人間学的解釈を自明としている状況において、大学生が『存在と時間』を研究テーマとして取り上げて、そこから人間学とはまったく異質の「存在への問い」の意義を何とか見いだそうと思うことはほとんど不可能であろう。だから非常勤先の学生と話していて、卒論はハイデガーの『存在と時間』を取り上げますと言われると複雑な気持ちになる。彼がハイデガー研究の誤った道に陥ることはほぼ確実だからである。 こう考えると、『存在と時間』は本当に罪作りな著作である。「主著」としてハイデガー思想を理解するには誰もが読まねばならないとされている書物が、「存在への問い」という彼の哲学の根本問題に接近することにとって最大の障害となっている。それゆえ本記事の冒頭で触れた『存在と時間』の入門書の好調な売れ行きも、そのことが『存在と時間』という書物に対する読者の過大評価に由来するのだとすれば、手放しで喜べることではない。 ハイデガー哲学の真の可能性を解き放つことは、『存在と時間』の神格化から脱却することと不可分である。というのも、ハイデガーの「存在への問い」の意味を正しく理解したとき、『存在と時間』は「存在への問い」の遂行という観点からは問題の多い失敗作であることがおのずと明らかになるからである。『存在と時間』の過大評価を改めること、このことこそが今日のハイデガー研究の喫緊の課題である。 [1] 『存在と時間』の成立事情については、拙著『ハイデガー『存在と時間』入門』第一章で詳しく論じているので、興味のある方はそちらを参照されたい。 [2] Martin Heidegger/Elisabeth Blochmann, Briefwechsel 1918-1969, Marbach am Necker, 1990, S.54. 轟 孝夫 経歴 1968年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
現在、防衛大学校人文社会科学群人間文化学科教授。
専門はハイデガー哲学、現象学、近代日本哲学。
著書に『存在と共同—ハイデガー哲学の構造と展開』(法政大学出版局、2007)、『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書、2017)、『ハイデガーの超‐政治—ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い』(明石書店、2020)、『ハイデガーの哲学—『存在と時間』から後期の思索まで』(講談社現代新書、2023)などがある。
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