月刊傍流堂

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第2話 櫛の別れ

 目の前に、淡海――琵琶湖が広がっている。荒れることも多いらしいが、今日は湖面に静かな波が立っていた。

「ああもう、眠いったら眠いったら」

 欠伸をしながら、乳母はさかんに愚痴をこぼした。宮中での儀式と、深夜の逢坂越えを果たしたせいだ。

「姫さま、櫛を外しましょうね」

 はじまったばかりの旅路だが、真白もくたくただった。

 昨日は眠れなかったし、緊張したし、ほとんど飲食もできていない。

 祖父に挿してもらった別れの御櫛が髪を離れた。真白の頭が、ふと軽くなる。ほっとしたが、かすかな不安もちらつく。

「見せて」

 乳母から櫛を見せてもらう。儀式のときはずしりと重みを感じたが、櫛は思ったよりも軽くて小さかった。

 黄楊の櫛は新しいのか、そうでもないのか。そっと、胸に当ててみたが、なにも伝わってこなかった。

「先代の斎王たちは櫛を取って、どんな気持ちに……」

「さあ、どうでしょうかね。おつかれだったことだけは分かりますが」

 乳母は興味がないようだった。それよりも、早く休みたいらしい。

 櫛を見つめてみる。

 これを最初に持ってきたのは、帝。

 おじいさまは『帝に怨霊が憑いている』と公言したけれど、しっくりこなかった。

 帝のお顔が、お声が、離れない。でも、なにを言えばよかったのか、分からない。

 手のひらの中で、櫛を転がしてみる。

「真白さま、そろそろお預かりしましょうか。あちらに、お食事をご用意しました。湖が一面に見渡せるお席です」

 乳姉妹の照葉が声をかけてきた。櫛は、匣(はこ)の中へとしまわれる。

「ありがとう。照葉も大変だったでしょう。休んでね」

「お気遣い、ありがとうございます。でも、このたびの伊勢行きに合わせて裳着を済ませた、一人前の女房。これぐらい、なんともありません」

 ほほ笑む照葉が白湯を勧めてくれた。喉が渇いていたので、一気に呑み干してしまう。白湯がこんなに美味しいと感じたのははじめてだった。

「儀式のときは助かったわ。とっさに、顔を直してくれてありがとう」

「当然です。まあ、私は急に飛び出したので、あとで母に叱られましたが。でも、悔いていませんよ。傷は痛みませんか」

 真白の心をほぐそうとしてか、おどけて見せた。

「額なら、だいじょうぶ。もう痛くない。今ね、帝のことを思い出していたの」

「思い出さなくても、よろしいのですよ。まずは、着替えましょうか」

 傷ついた真白を思いやってか、照葉は話題を変えようとした。

「いいえ。私は考えたいの。窮屈でお辛そうだった。はじめてお会いしたのに、分かった。誰にも言えなくて、苦そうで」

 あのとき、この帝がいなくなれば……というよこしまな思いがよぎった。一瞬とはいえ、そんな気持ちをいだいたことを思い出し、真白は俯いて目を伏せた。

「はい。照葉もそのようにお見受けしました。ですが、帝には帝の、真白さまには真白さまのお立場がございます。今は、無事に伊勢へ着くことを考えましょう。さあ、お席へどうぞ。今日の琵琶湖はひときわうつくしいと、土地の者が申しておりました」

 照葉に手を握られて先導され、真白は席に着いた。

 琵琶湖が目の前にある。どこまでも続いている水面に、真白は息を呑む。

「母は眠い眠いと申しながら、血縁が近江にいるのでその対応で忙しそうです。元気ですので、心配はいりません」

「乳母の名の『波津(なみつ)』。この水辺の土地に、ゆかりがあったのね」

 正直、くたびれていて食事どころではない。でも、眠れそうにもない。

 群行を無事に済ませるため、真白は少し無理をして笑みを浮かべながら食事と休息を取った。

 この身は、自分のものなのに――思い通りには、ならない。

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