第2話 櫛の別れ
躱(かわ)せる暇などなく、顎を引いて身を固くするのが精一杯。 鈍い音がしたあと、櫛が床の上に落ちて転がった。 左の額から、すうっと血がひとすじ、頬に向かって流れてきた。 痛い、というよりも熱い。 眉を寄せた帝が、驚いたように真白を見ている。 「なぜ、避けぬのか。なぜ……なぜ」 口を半開きにしたまま、帝は真白の肩をつかんだ。目を伏せながら、真白は答える。 「……なぜって。私は、斎王……だから」 いけない、しゃべってしまった。急いで口をおさえると、公卿たちが帝を押さえつけた。動きを封じられた帝は、奥の部屋へと連れて行かれてしまった。 その間に、照葉がやって来て真白の顔を拭った。化粧も直してくれる。 声をかけたいのに、できない。真白は息を止める。 照葉も、真白の顔を潤んだ目で覗き込んで静かに一礼して去った。 ◇ ◇ ◇ 儀式は少しの間中断したものの、太政大臣が櫛を持って出てきた。 「帝は御霊のせいで御気分を害された。私が、儀式の続きを行う」 太政大臣・藤原忠平は、真白のおじいさま。『幼いときの母にそっくりだ』と頭を撫でてくれたその手の中に、今は別れの櫛がある。 真白は太政大臣と視線を合わせたあと、軽く目線を下げた。櫛を挿しやすいように。 「都の方(かた)に、面向(おもむ)き給ふな」 ――斎王よ、都を振り返るな。帰ってくるな。 呪文のような台詞は、真白の体を縛る。 されるがまま、髪に櫛を挿された。 ふわりと、魂が抜けそうな感覚に襲われる。現身(うつしみ)から心が離れてゆくようで、ぞっとした。 「御霊のせいで世が乱れている。東西で起きている内乱、富士山の噴火、地震。新斎王、伊勢では、道真公の御霊が鎮まるよう、よく祈りなさい」 唇を噛んでいると、太政大臣は新斎王の耳もとで囁いた。 「……鴨川を渡る手前に、そなたの父母の牛車が停まっている。車には白の出衣(いだしぎぬ)をしてあるそうだ。声はかけられないが、目を留めるぐらいなら許されるよ」 顔は上げられない。代わりに、真白は軽く頷いた。
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