第2話 櫛の別れ
新斎王の血が、流れたのに。 帝が途中でいなくなったのに。 代役の祖父が櫛を挿したのに。 誰も、なにも言わなかった。 不穏なことはなかったことにされて『発遣の儀』は終わり、真白は宮中を出た。 夜更けだが、群行の行列は長い。五百人、いるらしい。 櫛の儀式ののちは、振り返ってはいけない決まりになっている。名残惜しさを捨てて真白は前を向く。 眠気を通り越し、痛い。今日は近江の勢多まで進むことになっているそうだ。 「明朝、出発すればいいのに。夜中に山越えなんて」 群行の前夜、乳母は不満を垂れていた。真白もそう思う。どうして、深更に、しかも峠を越えるのか、と。 ――まるで、都から逃げ落ちるかのように。 夜に、一行は無数の灯りを掲げて進む。足音と車輪の軋みが、夜の大路に溶けてゆく。 こんな時刻になっても、大路には見物人が多く詰めている。そこまでして見たいものなのか。真白は装束の袖を強く握り締めた。 そのとき、輿が大きく揺れた。そうだ、真白はするべきことを思い出した。父と母の車を探したかったのだ。 どこなの、父さま。母さま。少しでいいから、どうしても見たい。 満月の夜。 人の影、車の影、木々の影も築地の影も、はっきりとくまなく映っている。 もうすぐ鴨川に出てしまう。この橋を越えたら、都の外に出てしまう。 ことばを交わしたいなんて、言わない。見送りに来てくれたことだけでも、知りたかった。 洛外が近づいているせいか、道が悪くて乗っている輿が左右に揺れる。 おとなしく座っていなければならないが、なにかにつかまっていないとひっくり返ってしまいそうで、耐えられない。しかし、つかめそうなものがない。真白は身を屈めて伏したくなった。 斎王であることを忘れそうになった、そのとき。 前方左手に、白い衣を幾重にも垂らした車が見えた。横笛と、琴の音色が聞こえる。 これは……笛は父、琴は母の、懐かしい音。間違いない。 話ができない代わりに、父母は音を届けてくれた。ひとつひとつの音が、真白の体に届く。身を起こし、座り直してゆっくりと背筋を伸ばした。 楽の音で、父母が送り出してくれている。 真白はただ、笛と琴の音に合わせ、心の中であの歌を唱える。 『秋の夜の 月の光し 明かければ くらぶの山も 越えぬべらなり』 月明かりを浴びた新斎王の輿が、鴨川を渡った。 ◇ ◇ ◇ 夜が明けるころ、近江の勢多にようやく着いた。

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