月刊傍流堂

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第1話 東三条邸の月

「真白……いや、徽子(よしこ)女王。あなたは、卜定(ぼくじょう)[占いによって吉凶や日取りなどを定めること]によって伊勢斎王に選ばれた」

 まぶしく輝いていた室内に、黒い墨がじわじわと広がって滲んでゆく。しばらく、誰のことばも出なかった。

「なんと、伊勢……!」

 乳母が、真っ先に震える声を上げた。動揺をおさえきれなかったのだろう。

 後ろの女房たちはもう知っていたようで、さらなる嗚咽やため息が漏れ聞こえてくる。

 室内に知らない香りが漂っているのは、卜定を伝える使者が残したものなのか。

 伊勢斎王。

 照葉は耳にしたことがある。神事を行う、未婚の女性皇族。

 厳しく身を清め、白い布に囲まれて過ごす。そして、伊勢まで赴かなくてはならない。生まれ育った都を、出て。

 どうして伊勢なのか、照葉には考えも及ばない。

 と、そこまで想像した照葉の全身には、悪寒が走った。やがて真白はこの邸を、都を去ることになる――家族と、離れて。自分とも別れて。

 覚えず、照葉は立ち上がっていた。

「私、真白さまについていきます!」

 身分差も忘れ、照葉は強く訴えた。重明は、ほんの少しだけ驚いたような顔をしたが、照葉の気持ちを瞬時に汲んだ様子で、やわらかくほほ笑んだ。

「ありがとう、照葉。その気持ち、受け取ろう」

 この、あたたかい笑みが、照葉の心を打つ。寄せては返すさざ波のように、いつまでも消えずに。

「殿! わたしも伊勢へ参ります。真白さまの行かれる地ならば、山の中でも海の底でも。若い照葉だけに任せておけませぬ」

 もちろん、乳母も手を上げた。その噛みつかんばかりの勢いに、重明は押され気味になってしまって苦笑いを浮かべた。

「真白の父として、嬉しく思うよ。乳母もその娘も、頼もしい限りだ」

 真白をひとりにはできない、絶対に。照葉は、母と手を取り合って気持ちを確かめたが、真白本人は首を傾げている。

「伊勢って、なにかしら。さいおうって、なに?」

 澄んだ目で、じっと父を見つめている。まばたきをしたり、何度も首を動かしたり、おとなたちの騒いでいる理由がまったく分かっていないようだった。

 目を閉じたまま、重明は天井を仰いだがそれは一瞬。いつもの父の顔に戻り、膝の上の真白を抱え直す。

「真白は、帝の代わりに伊勢のという場所に行って、末永くやすらかでたいらかな国になるよう、毎日祈るのだよ」

 女房たちのすすり泣きが、今日いちばん大きくなった。

 しかし、真白にはまだ伝わっていない。

「祈る? 伊勢とは、どこですか。遠いの?」

「五日ほど、東に進んだところにある」

 五日、と小さくつぶやいた真白が言い返す。

「お祈りなら、どこからでも良いのではなくて? 神さまはきっとご覧になっているはず。気持ちさえこもっていれば」

「そうだね。しかし、気持ちだけでは届かないものがあるのだ……かの地へ赴き、身を捧げなければ。これは、とても名誉なお役目だ」

 照葉には、真白の顔から明るさが消えたのが分かってしまった。目にも、光がなくなってゆく。ただ、重明の胸で父の装束を握り締め、固まっている。

「なぜ、真白さまが! まるで人身御供のような扱い……ひどいです。そもそも、今の帝の世は不吉です。当代の伊勢斎王は、真白さまを含めて三人目。前の方は、選ばれてすぐ亡くなったとか」

「乳母や、気持ちをおさえてことばを慎みなさい。斎王は卜定によって決められる尊いもの。もう一度言おう。真白、そなたは白き衣で身を包み、伊勢で祈るのだ」

「……いの、る」

「帝のために、国の安寧のために、特に菅公を祀りなさい」

 菅公――菅原道真の御霊のことは照葉も聞く。世の中に良くないことが起きるのは、恨みを残して亡くなった菅公の祟りだと。

 注意されたばかりだが、乳母は止まらない。

「あんまりです! 真白さまはまだ八歳。裳着(もぎ)[貴族の女子の成人儀礼。初めて裳(も)を着ける儀式]のお式も、きっとあちらで行うことになります」

「そんなに長く行くの? 裳着って、だいたい十五ぐらいなのに」

「真白」

 重明は、指を折りながら歳月を数えている娘の名を呼んだ。新斎王の父は、流れ落ちそうになる涙をこらえている。

「斎王の任期がいつまで続くかは誰にも分からない。もちろん例外はあるけれど、帝が変わらない限り、斎王も続く」

 終わりが見えない祈りを背負わされたことを悟った真白は、必死になって父の胸を叩きはじめた。必死に歯を食いしばっている。

「お父さまやお母さまと会えなくなるの? 私がこのお邸に帰って来られるのはいつ? いや、そんなのいや! 私、斎王になんてなりたくない。お歌やお琴をもっと 習いたいもの。ねえ、お父さまは偉いのでしょう。今から取り消してもらって。お願いよ」

 歯を食いしばる真白を、父は袖で包み込んだ。真白の髪が上下に揺れている。顔は見えないが泣いているのかもしれないと思うだけで、照葉の心は締めつけられた。

 しばらく、重明は真白の頭をやさしく撫でていた。しきりに騒ぎ立てた乳母も疲れてしまったようで、項垂れたまま。

「……これは、定めだ。前世から決まっていたのだろう。今思えば、真白という名をつけたことが悔やまれる。まるで、斎王に選ばれるのを待っていたかのような、ゆゆしき因縁だ。ただ、生まれたばかりのお前の、輝く白き肌を見て愛でただけなのに」

 抗うことができず、指の力を緩めた真白は頷くしかなかった。

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