第1話 東三条邸の月
「真白(ましろ)さま、またここにいらしたのですね」 庭を臨む簀子縁でひとり、真白は南の空を渡る月を見上げていた。 今夜は十一日。満月になる手前の月。 「毎夜、形が違うの。もっと見ていたくて」 月明かりと庭の篝火を頼りに、床板の上へ紙を置く。たっぷりと墨を含ませた筆をそっと動かしはじめる。 八歳の真白は、晩秋の夜空に浮かぶ月の姿を紙に写した。今年のはじめごろから雨や曇りの日以外、休まず続けている。 伸びつつある髪が顔にかかると、うるさそうに手ぐしで直す。そんなことを数度繰り返したので真白の頬には墨がついてしまった。 「そろそろ、お休みなさいませ」 真白の乳姉妹である照葉(てるは)は、さりげなく紙を取り上げた。頬の汚れもやさしく拭く。もう、寝ているはずの時刻だった。 「姫さまは陰陽師ではございません。月を見てどうなさいます。夜風が冷えますし、そもそも……」 「はいはい。いつものお小言ね。『月の顔、見るは忌むこと』。誰が言い出したのかも分からないのに『月を見るなんて不吉』と、みんなどうして信じているのかしら」 「そ、それは……」 答えに詰まった照葉はことばを濁した。 「これまでに生きた人たちも、月を眺めたのでしょう。月を詠んだお歌がたくさん残っています。お父さまが教えてくださった、お歌にも」 『秋の夜の 月の光し 明かければ くらぶの山も 越えぬべらなり』 (在原元方 古今和歌集195) 背筋を伸ばした真白は、よく響く声で和歌を唱えた。 「すっかりお気に入りですね。『古今和歌集』の、そのお歌が」 「秋の月は明るいの。鞍馬山のように、暗いお山も越えられそうなほど。だから、もう少し眺めていたい」 「困りましたね」 「ほんとうに明るくて、きれいな月。百、二百……いいえ、千年後の人たちも私と同じように、こうして月を見上げているかもしれません」 「まあ、真白さまというお方は。続きは明日にしましょう」 照葉は真白の小さな肩を軽く押しながら、室内に戻るように促した。
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