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第23回 筑紫の人になってみる

 初代神武天皇の後を継いだ第二代~第九代の天皇は、綏靖(すいぜい)、安寧、懿徳(いとく)、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化天皇ですが、「欠史八代(けっしはちだい)」と呼ばれています。八代の天皇の帝紀(系譜や宮、陵など)はしっかりと記紀に記されているのですが、旧辞(説話、事績など)が記されていないため「欠史」と呼ばれているのです。そして、旧辞がないために、帝紀は創作されたものであり、八代はすべて架空の天皇であるとするのが、戦後の主流の学説になっています。
 しかし、もし本当に記紀の編纂者が八代の帝紀を創作したのなら、なぜ合わせて旧辞も創作しておかなかったのでしょうか。また、八代だけの創作ではなく、思い切って二十代くらいの天皇の帝紀と旧辞をすべて創作しておけば、多くの天皇の年齢を百歳以上にする必要が無くなり、皇紀元年を紀元前660年とする日本書紀としてはそれなりの一貫性が保たれたはずです。もっともそんな小細工をしたとしても、現代の知識を持ってすれば紀元前660年は縄文時代晩期に当たり、皇紀は創作だと見抜かれてしまいますが。ともかく、古事記と日本書紀の編纂者がそろって八代の天皇の帝紀だけを創作したという説は、あまりにも中途半端すぎて納得できないのです。
 八代の天皇の本名(あるいは死後のおくり名:以下同様)は、記紀が編纂された8世紀の天皇の本名に似せて創作されたという学者もいます。例えば、開化天皇の本名は稚日本根子彦大日日(わか やまとねこ ひこおおひひ)ですが、これは女性天皇である第四十三代元明天皇の本名である日本根子天津御代豊国成姫(やまとねこ あまつみしろ とよくに なりひめ)を反映して創作されたというのです。しかし私に言わせれば、逆に4世紀の天皇の本名を踏襲して8世紀の天皇の本名を名付けたとするのが順当な考えだと思います。記紀には八代の天皇の宮や陵は、橿原(かしはら)市や御所(ごせ)市などに造られたと記されています。もし宮や陵が奈良の纒向に造られていたとしたら、架空の天皇にならずに済んだかも知れません。
 自然科学のうち深海探査や宇宙探査などのように、入手できるデータがとても少ない場合は、希少なデータから最大限の知識を引き出そうと科学者は努力します。考古学も過去探求という社会科学であるならば、奇跡的にも現代まで伝承されてきた帝紀を、「作り話なので史実ではない」と決めてかかって顧みないのは何ともモッタイナイ気がします。

 八代の旧辞が記されていないことに対する私の仮説は、とても素朴で簡素なものです。すなわち、「記紀の編纂者の机の上には、始めから八代の旧辞は無かったから(八代の帝紀だけがあったから)」という仮説です。まったく皇紀を記していない古事記と異なり、日本書紀は皇紀を創作して大和朝廷の建国年代を古く飾っていますが、古事記も日本書紀も、架空の天皇を水増しするような失礼なことはしなかったように思うのです。大和朝廷の建国年を、紀元前660年ではなく西暦280年頃と推定すれば、八代の天皇を架空にせずに無理なく記紀を理解できるのです。
 八代の天皇の時代の旧辞が編纂時に無かったのは、神武東征による大和朝廷の建国後、内政の整備充実に当てた安定期だったからのように私は思います。現代の大河ドラマでも政治体制が変わる動乱期や変革期は繰り返し放送されますが、平和な安定期は血沸き肉躍る物語に乏しいためにほとんど取り上げられません。初代内閣総理大臣は有名な伊藤博文ですが、第二代内閣総理大臣はエピソードが乏しいためか影が薄いことに少し似ています。
 そして、第十代崇神天皇の時代になると説話が復活するだけでなく、とても盛りだくさんになるため、安定期が終わったことがうかがえます。例えば、疫病が流行し三輪山に鎮まる大物主神を手厚く祀る必要性に迫られ、急いで大田田根子命(おおた たねこ のみこと)を探したり、倭迹迹日百襲姫命(やまと ととひ ももそひめのみこと)を巫女に仕立て上げたりしました。また、武埴安彦(たけはに やすびこ)の反乱があったり、四つの地方に不穏な動きが見られて四道将軍(しどうしょうぐん)を派遣したりしました。さらに、崇神天皇が天照大御神の神霊に畏(おそ)れを感じて対策に追われました。
 このように記紀には、疫病が流行したり、中央や地方でも反乱が起きたり、崇神天皇は祖霊に怯えたという、大和朝廷の権威に障るような説話までが赤裸々に記されていることは注目に値します。記紀は大和朝廷の権威を高めるために創作されたと言われることがありますが、私に言わせれば決して美談ばかりを記しているわけではないのです。

 主流の学説では無視されていますが、第二代綏靖天皇(神沼河耳命:かん ぬなかわみみ のみこと)の旧辞(説話)は古事記の神武天皇記の最後の方にしっかりと記されているのです。この説話は、神武天皇の御子の間で皇位継承争いがあり、殺害まで行われたという説話です。これも、大和朝廷の権威を高めるようには思えない衝撃的な説話の一つです。以下にこの説話の要約を示します。

【 神倭伊波礼毘古命(かん やまと いわれ ひこのみこと:後の神武天皇)は九州の日向にいた時に結婚して多芸志美美命(たぎしみみ のみこと)が産まれた。また、奈良に進出して神武天皇になってからは伊須気余理比売と結婚して日子八井命(ひこ やい のみこと)、神八井耳命(かん やいみみ のみこと)、神沼河耳命(後の綏靖天皇)に三人の御子が産まれた。神武天皇が亡くなると、多芸志美美命にとって継母(ままはは)に当たる、神武天皇の妻であった伊須気余理比売を自分の妻にしただけでなく、大和朝廷の後継者になるために、伊須気余理比売の三人の御子を殺そうとした。伊須気余理比売はこの計略を三人の御子に知らせると、三人の御子は逆に多芸志美美命を殺すことにした。しかし、兄の神八井耳命は手足が振るえて殺せなかったため、弟の神沼河耳命が多芸志美美命を殺した。その勇気により兄から神沼河耳命こそ天皇になるべきだと推挙され、第二代綏靖天皇になった。】

 このように、第二代綏靖天皇の旧辞(説話)は記されているのです。つまり、欠史八代ではなく実は欠史七代だったのです。いやいや私も危うく間違うところでした。そもそも、第二代天皇から第九代天皇までの帝紀はしっかりと伝承されているのですから、旧辞が無いことだけで八代の天皇を架空にしてしまうのは、根拠として不十分です。
 ここで、なぜ多芸志美美命は殺され、神沼河耳命が天皇になれたのかの理由を考えてみました。父親は両者とも高天原の天津神である神倭伊波礼毘古命(神武天皇)なので、違いは母親にあります。多芸志美美命の母親は九州の日向の豪族で、神沼河耳命の母親は伊須気余理比売です。伊須気余理比売の母親(神沼河耳命の祖母)は大阪三島の豪族の娘で、父親(神沼河耳命の祖父)は、古事記では大物主神とされています。私は、この説話の背景には、日向の血筋よりも出雲の大国主命(大物主命)につながる血筋が優先された歴史的事情があったのではないかと考えています。また、出雲の国譲りの説話には、大国主命につながる血筋を皇統に入れることを含め、高天原と出雲との間に何らかの政治的な合意があったことが反映されているのではないでしょうか。そう考えれば、広大な出雲国を、さしたる戦いも無く高天原へ譲ったと伝えられていることにも一応の説明がつきます。皇位継承の説話にも、そうした高天原と出雲との関係が反映されているように私には思えるのです。ここでも南部九州の日向が膂宍空国(そししのむなくに)というやせた土地であり、出雲国と比べて国力が弱かったことが響いていると思います。南部九州が再び日本史の表舞台に立つのは19世紀の西郷隆盛まで待たなくてはなりません(?)。

 初期の八代の天皇を架空と考える学者の多くは、造化三神(ぞうかの さんしん)に始まり天照大御神を経て神武天皇に至る、主に九州や出雲が舞台となる「記紀神話」も創作されたと考えているようです。「記紀神話」が創作された理由としては、「地上の大和王権の権威を高めるために天上世界を創作したから」とか、「記紀の編纂時の大和王権を正統化するために創作したから」などの様々なことが言われています。
 しかし、「高天原も高千穂も九州にあり、神武天皇は高千穂から奈良へ東征した」という説話が、どうして奈良の大和王権の権威を高めたり、編纂時の大和王権を正統化することにつながるのか、私にはまったく理解できません。邪馬台国も大和王権も奈良にあったのなら、記紀神話は混乱をまねくだけの無用な長物になってしまいます。「奈良の高貴な豪族が日本各地の蛮族を服属させて統一国家を建国した」という説話を創作した方が、よほど権威を高められると思うのです。しかし実際は逆に、奈良の豪族であった長髄彦は物分かりの悪い蛮族のように記されていて、あげくの果てには殺されてしまうのです。
 万々が一、邪馬台国も大和王権(大和朝廷)も奈良にあったにもかかわらず、なぜだか九州や出雲が舞台となる記紀神話が記紀の編纂者の机の上にあったとしたら、編纂者は「こんな記紀神話なんて価値が無く混乱するだけだ」として捨て去り、大和王権の正統性をより分かりやすく示す説話にすることもできたはずです。しかし事実は、記紀神話を捨て去らなかっただけでなく長々と記しているのです。
 このような記紀神話に対する私の仮説はまたしても、とても素朴で簡素なものです。すなわち、「大和朝廷は筑紫に起源を持つ」ことこそが記紀の編纂者が後世に伝えたかった主題だったからという仮説です。
 この仮説に立てば、大和朝廷を興した勢力の中心は、邪馬台国につながる九州の人々であったことになります。そして、記紀の編纂者は、数世紀にわたり天皇家や複数の豪族に不完全ながらも伝承されてきた帝紀と旧辞を、重要な記録としてまとめ上げた、と考えることもできると思うのです。
 「奈良の古墳時代はどこよりも先んじて3世紀にはもう始まっていた」という発想で記紀を読んでしまうと、奈良から遠い九州や出雲の説話が長々と記されていることが理解できずに、記紀はとても「奇妙な物語」になってしまいます。何でこんな作り話が伝承されているのか、頭をひねってみても誰だって合理的な答えを見つけられないはずです。
 「奇妙な物語」だと感じる原因は、この連載で示してきた、「3世紀の先進地は奈良ではなく、大陸に近い北部九州だった」ことを考慮していないからだと思います。現在の主流の学説では、3世紀の近畿は既に古墳時代になっていたとされていますが、私はその年代観には疑問を持っています。私の考えでは、3世紀の近畿は、奈良の唐古・鍵環濠集落や大阪の池上曽根環濠集落に見られるように、魏志倭人伝や記紀に登場しない銅鐸の文化を育んでいたのであり、まだ古墳は造られていなかったと思います。一方の3世紀の北部九州は、魏志倭人伝や記紀神話に登場する鉄や絹や鏡の先進的文化を育んでいたのであり、平原(ひらばる)方形周溝墓が福岡県糸島市に造られていたのです。この墓は、後に古墳からたくさん出土するようになる「割竹形木棺(わりたけがた もくかん)」に遺体が納められた先駆けであり、古墳の萌芽とも言える「盛り土」もあったのです。
 以上のことから、記紀は、奈良を先進地とする発想ではなく、北部九州を先進地とする「古代の九州人になったつもり」で読む必要があり、そうすることにより「筋の通った物語」に生まれ変わるのです。天上世界のおとぎ話ではなく、人物が躍動する、地に足のついた物語になります。そして、九州や出雲が舞台の説話で示された「大和朝廷は筑紫に起源を持つ」ことこそが記紀の最大の主題だったことに気付くのです。その試みがこれまでのこの連載で私が示してきたことです。また、次回からは今まであまり触れて来なかった土器の話や三角縁神獣鏡、前方後円墳などについて深堀りし、これらの出土物や古墳がみんな北部九州に起源を持つことを示していきます。
         星月夜(ほしづくよ)筑紫(つくし)の人になってみる(永寿)

 記紀の編纂者が伝えたかった主題はこれだけでは無かったかも知れません。確かに大和朝廷の天皇家や物部氏には九州人の血が色濃く流れていたと思いますが、第9回の「神々の系図」でも分かるように、出雲や奈良、大阪の人の血もしっかりと入っているのです。これは、倭人の国を統一することを優先し、帰順してきた人々を受け入れていった結果ではないかと私は考えています。記紀からは小規模の戦争はあったことがうかがえますが、大筋では倭人の大同団結による統一が目指されたのではないでしょうか。このため記紀には、「大和朝廷は、九州人を中心として各地域が和合して成った、倭国、輪国、和国(わこく)、日本(ひのもと、やまと)、山処(やまと)であり、大きな和国の大和(やまと)に成った」という主題もあったように思います。豪族が王を共立して支える政治体制を卑弥呼の時代から引き継いで、広域統一国家である大和朝廷に成ったのです。

 さて、天皇陵古墳の呼称にも異議を申し立てたいと思います。私の中学や高校時代の日本史の教科書などには、一番大きい前方後円墳は全長486mの第十六代「仁徳天皇陵」であると航空写真入りで書かれていました。ところが数十年前からは、多くの歴史の本では現代の地名などが優先されて、「大仙(だいせん)古墳」と書かれるようになり、少し親切な本でも「大仙古墳(伝・仁徳天皇陵)」などと書かれています。仁徳天皇陵が単なる伝説に落し込められているのです。同様に、二番目に大きい全長425mの第十五代応神天皇陵は「誉田御廟山(こんだ ごびょうやま)古墳」となり、全長242mの第十代崇神天皇陵古墳は「行燈山(あんどんやま)古墳」となっており、まるで昼行燈(ひるあんどん)のような腑抜けた扱いなのです。しかも、どの天皇とどの古墳が対応しているのか、日本史の覚える要素が増えてしまって困ってしまいます。
 このような扱いになったもっともらしい理由は、天皇陵は宮内庁が管理していて発掘調査ができないので、誰の古墳なのか学術的には断定できないからと言うのです。さらに、古墳からは墓碑銘が出土しないので大王の名は不明とするのが学問として最も正しい判断だとも言うのです。その結果、天皇陵を現代の地名などで呼んで「名無しの大王墓」にしてしまうのです。しかし私は、古文献に残された被葬者の伝承との関係を切り離してしまうことには疑問を感じ、また、古代日本史の魅力を損なっていると感じています。
 天皇陵は、記紀だけでなく延喜諸陵式(えんぎ しょりょうしき)などにも記されていて、それら記述に矛盾は少なく、私は、ほとんどの天皇陵について、宮内庁が治定した天皇が葬られていると考えても大きな問題は生じないと思います。確かに第二十六代継体天皇陵などの一部に誤った治定がなされているような古墳もありますが、例外があることを言い立てて、すべての天皇陵を現代の地名などで呼ぶことは行き過ぎた不当な扱いだと思います。なお、継体天皇陵などで誤った治定がなされた理由は、記紀のあいまいな場所表記から起きたことであり、当時は住所が無かったので致し方ないことなのです。以上のことから、誤った治定は修正することにして、問題の無い古墳については「仁徳天皇陵」のような表記に戻していただきたいのです。過渡期には「仁徳天皇陵(大仙古墳)」のような表記も仕方ないですが。
 天皇陵を現代の地名で呼ぶ学者の中には、「纒向にある箸墓古墳は卑弥呼の墓である」と唱えている人もいます。もちろん、箸墓古墳も宮内庁が管理していて発掘調査ができず、卑弥呼の墓であるという墓碑銘も出土していないにもかかわらずです。箸墓古墳は、記紀や延喜諸陵式などの古文献には一致して倭迹迹日百襲姫(やまと ととひ ももそひめ)の墓と記されています。卑弥呼と倭迹迹日百襲姫との活躍年代は100年以上も違っています。「仁徳天皇陵」を「名無しの大王墓」にする一方で、箸墓古墳を3世紀の「卑弥呼の墓」と特定することには、何か釈然としないものを感じます。


高橋 永寿(たかはし えいじゅ)

1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。

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