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第4回 偏食とは何か——歴史上の偏食家の事例を手がかりに

前回は、マリー・アントワネットがいかに乳製品を愛し、それに莫大な金額を費やしていたかを見てきた。歴史をひもとくと、不思議なことに、特定の食べ物に強い執着を抱き、それにひたすら没頭した人物の記録が少なからず見受けられる。『美味求真』でも、そうした人物の事例をいくつか取り上げているので、今回はそうした人物たちを紹介しながら、その背後にある問題について考えてみたい。

神聖ローマ帝国皇帝:カール5世

最初に取り上げるのは、神聖ローマ皇帝カール5世(Karl V、1500年―1558年)である。カール5世はハプスブルク家の出身で、家系をたどれば、マリー・アントワネットの母マリア・テレジアの祖先に位置しており、マリー・アントワネットよりおよそ200年前を生きた人物である。

このカール5世は、かなりの大食漢として知られていた。『History as Romantic Art: Bancroft, Prescott, Motley, and Parkman』によれば、彼の好物は「鰯のオムレツ、スペイン・エストレマドゥーラ州産(イベリコ)のソーセージ、鰻のパイ、塩漬けにしたヤマウズラ、肥えた雄鶏、マルメロのシロップ、冷たいビール、そしてライン産ワイン」であったという。『美味求真』にも、カール5世が鰻のパイを偏愛していたことが記されているが、木下謙次郎はこれを、美食の追求がついには一種の偏食の極みにまで陥ったネガティブな事例として批判的に取り上げている。

ヨーロッパでは古くからウナギが盛んに食されてきたが、その背景には宗教的な事情がある。カトリックでは四旬節(レント)をはじめとする斎食日に、獣肉を口にすることが禁じられていた。一方で魚は「冷血の生き物」とされ、肉とは区別されていたため、食べることが許されていた。

ウナギは脂肪分が豊富で滋養に富み、味わいも濃厚であったことから、肉の代替としてとりわけ重宝された食材である。とりわけ内陸部では、保存や流通の技術の発達とともに重要な蛋白源となり、祝祭日や上流階級の食卓にもたびたび登場している。

1390年頃、リチャード2世の宮廷料理長らによって編纂された中世イングランドの料理書『The Forme of Cury』には、「Conger in Sawce」というレシピが収められている。これはウナギ(ここではアナゴ類)を茹で、香草やスパイス、パンなどをすり潰して酢でのばしたソースをかけて供するという調理法である。少なくともこの料理は、日本のようにウナギを背開き・腹開きにして焼く調理法とは大きく異なっている。カール5世が好んだとされるウナギのパイについては、具体的なレシピは確認できないが、この時代のヨーロッパでは、ウナギやアナゴが日本とは異なるさまざまな方法で調理されていたことがわかる。

ちなみに、現代のヨーロッパ、とりわけベルギーはウナギ料理で知られているが、ここでも日本のように開くことはせず、ぶつ切りにしたウナギを用いるのが一般的である。

19世紀のイギリスでベストセラーとなった『Mrs Beeton’s Book of Household Management』(ビートン夫人の家政読本)にもウナギパイのレシピが掲載されているが、そこでもウナギはぶつ切りにされ、皿に並べた上からパイ生地をかぶせてオーブンで焼くという調理法として紹介されている。

日本のウナギを背開きあるいは腹開きにして、蒲焼や白焼きにする料理方法に慣れ親しんでいる我々には、カール5世のウナギパイをはじめとする西洋のぶつ切りウナギ料理を偏執的に食べようという気分になれないかもしれない。こうしたカール5世の例から、何を美味と思うかは、個人の嗜好によるところも大きいことをあらためて思い知らされる。

カール5世はストレスに起因する過食傾向を抱えていたとされ、さらに痛風にも長く苦しめられていた。痛風は血中の尿酸値が高い状態によって引き起こされる疾患であるが、大量のウナギパイを食し、冷たいビールを愛飲していた彼の食生活は、結果としてその症状を悪化させた可能性がある。『美味求真』が指摘するように、カール5世の美食は、嗜好と健康の両面において均衡を欠き、ついには偏食の極へと傾いた悪例なのである。

ローマ教皇マルティヌス4世とウナギ

『美味求真』には書かれていないが、ダンテ・アリギエーリの著した『神曲』の「煉獄篇」には、ウナギ好きで知られたローマ教皇マルティヌス4世(在位1281年~1285年)が、死後、犯した大食の罪を、煉獄で絶食によって償わされる様子が描かれているので紹介しておきたい。

彼の後ろにいる、他の誰よりも、刺し縫いされたようなあの顔(ひどくやつれた顔)は、聖なる教会を両手に抱えたこともあった。トゥールの出身で、煉獄では絶食によって、ボルセーナ湖のウナギとヴェルナッチャの白葡萄酒の罪を償っている。(訳は筆者による)

マルティヌス4世はかなりのウナギ好きで、ボルセーナ湖から取り寄せたウナギを白葡萄酒に漬けて溺れ死なせるのを眺めてから、それを焼いて食卓に出させていた。ダンテはこうした大食に対する断罪の意味も込めて、『神曲』の中で、マルティヌス4世を煉獄の中で絶食により罪を償う者として描写したのである。

『神曲』の註釈では、マルティヌス4世は、食道楽の罪にかけてはたいへん罪深い人物だったと述べられている。キリスト教で大食というのは「七つの大罪」のひとつに数えられる悪行である。マルティヌス4世はキリスト教の最高位の教皇だったことを考えると、その罪は他の誰よりも深かったはずである。これもカール5世と同じく、偏食の極にまで陥ってしまった嗜好だといえる。

イングランド王 ヘンリー1世

イングランド王のヘンリー1世(1068年 – 1135年)は、医師からウナギを食べるのを止めるようにというアドバイスを受けていたが、医師の忠告を無視してウナギを食べ過ぎ、それが原因で命を落としたと伝えられている。生命のリスクを冒してまで過食するぐらいである。彼にとってウナギ(実際はヤツメウナギと考えられる)は他に代えられない相当な好物だったのだろう。

太古のギリシャ人は泥からウナギが生まれると信じていたそうであるが、ウナギは近年になるまで生態や繁殖方法がまったく分からない生物だった。権力者たちがこうした不思議な生物の虜になるのは、まだ分かっていない魅惑的な要素が存在するためかもしれない。

臨川王蕭(しょう)宏(こう)

『美味求真』には、臨川王の蕭宏が「鮒の頭を好み、一日に三百匹も食べた」との説明がある(『現代語訳 美味求真』112ページ)。蕭宏(473年 – 526年)は梁国の皇族であったが、『南史』によると、非常に素行が悪く、問題のある人物として記録されている。蕭宏は敵軍を前に逃亡し、皇帝だった兄(蕭衍)の娘と姦通し、あろうことか皇帝である兄を暗殺しようとまでしたのである。それでもその都度、兄の蕭衍は蕭宏を許している。

しかし蕭宏は改心することもなく、やがて放蕩と奢侈にふけるようになる。宮殿のような大邸宅を築き、寵愛した江無畏に豪華な装いをさせ、彼女の宝石飾りの靴は途方もない価値があったという。また後宮に全国から選ばれた絶世の美女たち数千人を集めて寵愛したともある。『南史』にはこうした文脈のなかで、蕭宏が鮒の頭を日に300も食べたことや、その他の珍味も溢れんばかりで、宮中で食べきれず道端に捨てたという、彼の食の嗜好や奢侈について語っている。

木下謙次郎は、鮒の頭を好んで食べていたようで、『美味求真』には「鮒の頭の旨さを高く評価しているのは筆者だけかと思っていたが、同じ嗜好の古人がいたことを知った」として、蕭宏が鮒の頭を好んだことを好意的に取り上げている(『現代語訳 美味求真』112ページ)。これは木下謙次郎が前後の文脈からこの逸話を十分に確認していなかったことが原因であろう。

木下謙次郎は、「美味を好む人が、必ずしも味を理解する人であるというわけでもない。中国においては齊の桓公、ヨーロッパではカール5世、日本では細川勝元が有名であるが、彼らは皆一様に、味への追求が一種の偏食の極みにまで陥って」しまったと批判している(『現代語訳 美味求真』41~42ページ)。本来であれば蕭宏もまた、こうした人物たちに連ねられるべき偏食者だったのではないだろうか。

徒然草

『美味求真』では取り上げられていないが、吉田兼好の『徒然草』には次のような注目すべき逸話がある。

徒然草 第四十段 因幡国に、何の入道とかやいふ者の娘、かたちよしと聞きて、人あまた言ひわたりけれども、この娘、たゞ、栗をのみ食ひて、更に、米の類を食はざりれば、「かゝる異様の者、人に見ゆべきにあらず」とて、親許さざりけり。(『新訂 徒然草』西尾実、安良岡康作校注、岩波文庫より)

この内容は、因幡国の某入道の娘が、容貌が美しいと聞いて、多くの男が求婚していたが、栗だけしか食べない異様な者なので、親は結婚を許さなかったというものである。

評論家の小林秀雄は「これは珍談ではない」と断言している。さらに小林秀雄は、兼好は「物が見え過ぎる眼」、「利きすぎる腕」を持つがゆえに、沢山の事を感じつつも多くを言わずに我慢したのだとも批評している。つまりこの解釈は読者に委ねられたものだということになる。この逸話の意図は様々に推測でき、わたしもそれなりの独自説もある。しかしながら今回は、親が、栗だけを食べる娘を異様だとしたことだけに焦点を絞って考えてみたい。

ここで取りあげる入道の娘が偏食ゆえに異様だとするならば、先から取り上げてきた、ウナギや鮒を偏食する者たちも、同じく異様ということである。美味求真というと、ひとつの物事を突き詰める行為のように思えるかもしれない。それは料理をする作り手においては当てはまるものの、こと味わうという行為においてはむしろ逆であると言える。なぜならひとつの食べ物だけに囚われ、偏食するのは好ましいことではなく、こだわりも度が過ぎればただの固執になってしまうからである。またそこには何らかの精神的な問題を示唆するようなネガティブなニュアンスも存在しているのではないだろうか。

ある激辛店にて

都内にある有名な激辛店を訪れたことがある。驚いたのは店にいる客のほとんどが毎日のようにこの店にやってくる常連であること。さらには激辛料理を食べた後、ほとんどの客がテイクアウトで激辛の弁当まで買って帰ることである。わたしの訪問したのは夜だったが、お客の多くが夜に来てここで激辛を食べ、翌朝あるいは昼にも激辛を食べ、夜にまたこの店に戻ってくるというサイクルを繰り返しているようなのだ。そこで思ったことは、なぜ来店者たちはここまで激辛料理を偏食的に求めるのかということである。

現代はストレス社会の時代である。人間は精神的な負荷がかかると、身体に支障をきたすようになる。そしてその影響が味覚に現れ、食べ物の味を感じにくくなる場合がある。

味覚は、甘味・塩味・酸味・苦味・うま味の5つとされている。これに辛味が入っていないのは、人は辛味を味覚で感じ取るのではなく、痛覚で感じているからである。つまり辛味は、味ではなく刺激なのである。過大なストレスなどで舌から味覚が失われるようなことになった場合でも、痛覚だけはあるので、そうした人々の食事は味覚の代替として辛味(痛覚)に依存するようになり、これが激辛の偏食になってゆく場合があるという。

偏食とは何か?

前回のマリー・アントワネットを始めとして、今回も歴史上の人物たちの偏食(偏執的な食)というものを追ってきたが、いずれも人間的な精神状態や感覚にバランスを欠いた人物が、そのような食のスタイルに固執するようになるという共通点が存在するようにも思える。例えとして挙げた激辛料理の場合、こうした料理を食べている誰もが、精神的に問題を抱えているとはいえない。ただもし、ほぼ毎日そうした料理ばかりを食べ続けているということになれば、精神的にバランスを欠く何かの理由がそこにあるのかもしれないということになる。

歴史上の偏った食事をしてきた人物たちの記録と照らし合わせてゆくと、偏食というものには、執着心とも言えるような強いこだわり(固執)があり、それが精神的あるいは感情的にバランスを欠いた行動とつながっていることが見えてくる。その結果として、過度な奢侈や不健康、さらには死を招いた例もあったのである。

こうしたことから、偏食と精神状態は、潜在的に相関性があるとわたしは考えている。故に、木下謙次郎が、過去に食通とされたこだわりのある人物たちであっても、そのこだわりが「美味求真」の観点から逸脱しているのであれば、彼らを批判したことは十分に理解できる。


河田容英(かわだ・やすひで)

一九六九年(昭和四十四年)生まれ。大学生向けの海外留学支援企業・株式会社ログワークス代表取締役。また社会人ビジネスパーソンがイギリス国立大学や欧州大学のMBA(経営管理学修士)およびDBA(経営管理学博士)を取得するための教育企業・エグゼジャパンビジネススクールの代表を務める。自然言語処理の研究にも従事し共著論文多数。イギリス長期滞在時に幾つもヨーロッパのレストランを訪ね、海外での食と文化に数多く触れる機会を得たことや、帰国後に海外諸国と日本の食文化の相違、類似、ありかたを思想的視点から捉えなおすようになったのを機に、二〇一六年より郷里の政治家・木下謙次郎の著書『美味求真』の現代語訳に着手しウェブサイトで公開を始める。その後、『美味求真』に注釈を付すという方法で食にまつわる文化、歴史、哲学に関する記事を発信し続けている。
https://www.bimikyushin.com/

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