第20回 神倭伊波礼毘古命の東征
さて、第14回から第19回にかけて、250~270年頃の南部九州、出雲、奈良への「高天原三征」大作戦について紹介してきました。高天原の成果を簡単にまとめると、南部九州については鹿児島や宮崎を完全掌握しましたが、そこは膂宍空国(そししのむなくに)で稲作には不向きな土地柄でした。また、大国主命からの国譲りにより出雲から北陸にかけてと大阪の一部については掌握しましたが、大国主命の領土は大阪の中心部や奈良までは達していませんでした。さらに奈良については邇芸速日命(にぎはやひのみこと)が天降りして、奈良の豪族である登美長髄彦(とみの ながすねひこ)を臣下とし、その妹と政略結婚して東海地方まで領土を広げました。しかし、長髄彦も銅鐸を威信財として、未だに大きな権力を保持しており、邇芸速日命の一存では国を動かせませんでした。 このように、ほぼ同時に進行した「高天原三征」大作戦はどれも失敗はしていませんが、広域統一国家を築き上げるという観点からは道半ばでした。そこで満を持して神倭伊波礼毘古命(かんやまと いわれひこ のみこと:後の神武天皇。伊波礼毘古と略します)が、塩土老翁(しおつちのおじ)の進言に従って、西日本全体から東海地方までを掌握し、奈良を都とする天下統一作戦に着手したのです。それが、いわゆる神武東征(神武東遷)と称される記紀神話(記紀実話)のクライマックスになります。 【 伊波礼毘古は宮崎にしばらく留まったが、その土地は膂宍空国であった。塩土老翁(しおつちのおじ)は「東に四方を青山に囲まれた良い国がある。」と言った。それを聞いた伊波礼毘古は「その国は天下を治めるのに足る場所で、国の中心にするのに相応しいと思う。そこへ行って国を創(つく)ろうではないか。」と言った。 伊波礼毘古は奈良を目指し日向(宮崎)から船出し、豊国の宇佐へ着き、宇沙都比古(うさつひこ)と宇沙都比売(うさつひめ)のもてなしを受けた。次に筑紫の岡田で宮を構え1年滞在し、安芸国の多祁理宮(たけりのみや)では7年滞在した。さらに吉備国の高島宮(たかしまのみや)では8年滞在して奈良攻略の準備を整えた。 瀬戸内海の速吸門(はやすいのと)では国津神である槁根津日子(さおねつひこ)が現れて伊波礼毘古に帰順し、奈良への海路を先導した。この功績で後に、槁根津日子は倭国造(やまとの くにの みやつこ)の祖となった。】 伊波礼毘子が奈良を攻略する理由は、奈良が「四方を青山に囲まれた良い国であり」「その国は天下を治めるのに足る場所で、国の中心にするのに相応しい」からです。つまり、福岡の朝倉盆地と同じような「山ふところにいだかれた良きところ、山処(やまと)」である奈良を掌握して都とし、広域統一国家を築き上げるためです。 伊波礼毘子はまず、宮崎県日向市の耳川(みみかわ)の河口にある美々津(みみつ)港から船出したと言われています。耳川は椎葉村を源として100㎞余り蛇行を繰り返し日向灘へ注ぎます。この辺りは弥生時代から木材や木炭、椎茸などの山の産物を筏(いかだ)で運び出して栄えていました。現在の美々津港では旧暦の八朔(8月1日)の夜に、子どもたちが短冊飾りのついた笹を手にして家々の戸を「起きよ、起きよ」と叩いてまわる「おきよ祭り」が受け継がれています。この祭りは、早朝に風向きが変わって急に伊波礼毘古が東征に出航することになったため、家々に「起きよ、起きよ」と声を掛けて回り、総出であわただしく船出の準備をしたことに由来するようです。 伊波礼毘古の船は豊の国の宇佐へ着いて、宇沙都比古夫妻のもてなしを受けました。第13回にお話ししましたが、ここは宗像三神または万幡豊秋津師比売命を祭神とする宇佐神宮の鎮座する地です。次に筑紫の岡田では宮を構え1年滞在しています。岡田の地は、遠賀川(おんががわ)の河口の岡湊(おかのみなと:岡水門)のことだと言われています。芦屋町には岡湊神社が鎮座しており、祭神は天照大御神や伊波礼毘古などです。 直接奈良へ東進せずに、西進して宇佐や遠賀川河口に立ち寄った理由は、宇佐は豊の国の中心地であり、遠賀川河口は物部氏の本拠地だからだと思います。すなわち、故地の高天原(邪馬台国)勢力に援軍の要請をし、軍船などの資材調達を行うためだと思われます。邪馬台国時代の遠賀川流域の遺跡からは造船に欠かせない木を削る鉄製の槍鉋(やりがんな)が多数出土しています。槍鉋とは文字どおり槍(やり)の形をした木の表面を削る鉋(かんな)のことで、古代の鉋は木の台が付いておらずに反(そ)りのある鉄の両刃を木の柄(え)の先に付けた槍の形をしていました。現在のように鉋に木の台が付くようになったのは室町時代以降です。 伊波礼毘古は、安芸国の多祁理宮(広島市付近)では7年(日本書紀では2か月)滞在し、吉備国の高島宮(岡山市付近)では8年(日本書紀では3年)滞在したとされていますが、いくら準備が必要だとしても奈良への進軍が遅すぎます。美々津港からは「起きよ、起きよ」と急いで船出したのです。第8回に書いたとおり、記紀の年数は全体が古い時代へ間延びしているので割り引いて考えればいいのかも知れません。なにせ、伊波礼毘古の享年は古事記で137歳、日本書紀で127歳となっているのです。この頃は二倍暦だったのではないかという説もあります。二倍暦とは、春と夏で1年、秋と冬で1年と数える説です。それにしても何年かは足踏みをしていたわけで、これは山陽地方や瀬戸内海の攻略に手こずったことの反映かも知れません。 出雲の加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が岡山県勝央町(美作:みまさか地方)の念仏塚遺跡から出土しています。このように広島や岡山の山間部は大国主命の勢力範囲だったので、出雲の国譲りにより既に高天原の領土になっています。しかし、広島や岡山の沿岸地域は大国主命の勢力範囲ではなかった可能性や、瀬戸内海の制海権までは握っていなかった可能性があるのです。それを裏付けるように、伊波礼毘古が東征した時代には、広島市や岡山市周辺の高台には高地性集落がたくさん築かれていました。 高地性集落とは、生活や食料生産には適さない見晴らしの良い山頂付近にある小さな集落で、見張り台や烽台(のろしだい)のような監視や通報、防御施設のある集落のことです。高地性集落の研究では山口大学名誉教授の小野忠熈(おのただひろ)氏の右に出る人はいません。小野氏の著作に『高地性集落論』(学生社)、『高地性集落跡の研究(資料編)』(学生社)などがあります。 小野氏によれば、高地性集落は弥生時代中期から後期にかけて瀬戸内海沿岸から近畿内陸部にかけて、長期間にわたり断続的に築かれています。一方、九州にはほとんど無く、出雲にはまったくありません。世界史でも日本史でも高地性集落なような防御集落は、侵攻して攻撃する側には少なく、侵攻される側に多いという傾向があります。このことから、高地性集落は九州勢力や出雲勢力からの圧力に対して、近畿勢力が築いた防御集落であった可能性が高いのです。そして少し先の経過をお話しすると、この時代の高地性集落は山陽地方の西側から徐々に数を減らしていき、大和朝廷が誕生する3世紀末には、最後まで残っていた奈良の高地性集落も廃絶されたのです。 さて、古事記では吉備国の高島宮を出発した後の速吸門(はやすいのと)に国津神である槁根津日子(さおねつひこ)が現れます。この速吸門は今の明石海峡と見られます(以下は、前回の地図を参照してください)。しかし、日本書紀では美々津港を出港してすぐの速吸門に珍彦(うずひこ)が現われるので、今の豊予海峡(速吸瀬戸)と見られます。珍彦は後に椎根津彦(しいねつひこ)の名を賜ります。 豊予海峡から明石海峡の瀬戸内海全域が潮の流れが速く渦潮(うずしお)も見られるような、航行に危険な海域です。源平の壇ノ浦の海戦で源氏が勝利したのは伊予河野氏らの水軍を味方に付けたからだと言われています。また、戦国時代には瀬戸内海を航行する船は村上水軍の水先案内が必要で、対価を強要したので村上海賊とも呼ばれました。もちろん船の構造が未発達の3世紀末の伊波礼毘古の時代にこそ、安全航行に長けた水軍の力が必要だったことでしょう。 槁根津日子(または珍彦、椎根津彦)は後世の村上水軍と同様に、豊予海峡から明石海峡にかけての瀬戸内海の制海権を握っていた水軍の長だった可能性があります。そして、広島や岡山で伊波礼毘古の進軍が遅かったのは、槁根津日子を味方に付ける調整に手間取っていたからかも知れません。槁根津日子は伊波礼毘古勢力と奈良勢力とのどちらに加勢したら有利か値踏みしていたのかも知れません。 なお、椎根津彦を祭神とする神社には、大分市佐賀関の椎根津彦神社があります。この神社は2025年11月の佐賀関の大火での被災を免れました。また、兵庫県神戸市東灘区にも保久良(ほくら)神社があり、この神社は眺望の良い保久良山に鎮座しているため、高地性集落跡ではないかとも言われており、石斧や石剣などの他に、北部九州の影響がうかがえる銅戈(どうか:銅製の武器)やガラスの勾玉が出土しています。 ここで不思議な遺跡を三つ紹介します。 一つ目は神戸市の東隣りの芦屋市にある標高約200mの尾根筋に広がる会下山(えげのやま)遺跡です。ここは眺望が良く、淡路島から大阪湾を経て紀伊半島の山々まで見渡せることから典型的な高地性集落と言われています。会下山遺跡からは、竪穴住居跡9棟、土器、湧水地、祭祀場跡、狼煙台(のろしだい)、石鏃、銅鏃、投石弾、釣り用の石錘(いしおもり)など、高地性集落特有の遺物が出土しています。不思議な遺跡と言う理由は、会下山遺跡からはガラス小玉が入った甕棺や碧玉製管玉のほか、鉄釘、鉄斧、鉄製ヤリガンナなどの鉄製品も出土したのです。これらは北部九州の典型的な遺物であり、近畿ではごく稀にしか出土しない遺物ばかりです。このように会下山遺跡は、近畿勢力だけでなく九州勢力とも深いつながりがあったように思えるのです。 二つ目の不思議な遺跡は、会下山に近い兵庫県尼崎市にある田能(たの)遺跡です。 この遺跡は猪名川(いながわ)に沿って広がっていますが、猪名川の名の由来は、邇芸速日命の奈良への天降りに帯同した物部一族である為奈部(いなべ)氏が、後世にこの地を治めるようになったことに由来します。田能遺跡からは住居跡や大量の土器、銅鏃が出土し、土杭墓、箱式木棺墓の他に、北部九州の埋葬様式である甕棺(かめかん)墓も出土しました。具体的には、1号土杭墓からは弥生時代中期の人骨が、16号箱式木棺墓 からは人骨の上半身に水銀朱が塗られ、胸部に632個以上の碧玉製管玉が置かれていました。また、17号箱式木棺墓からは、同じく人骨の上半身に水銀朱が塗られ、左腕に白銅製腕輪を装着していました。そして、9号甕棺墓は水銀朱が塗られた弥生中期末の様式をしていました。その他、銅剣の鋳型、ガラス玉、碧玉原石、翡翠製勾玉も出土しています。箱式木棺墓や甕棺だけでなく、碧玉製管玉や水銀朱、白銅製腕輪、銅剣、ガラス玉、勾玉が典型的な北部九州の出土物であることから、この集落も北部九州との深いつながりがあったように思われるのです。 三つ目は大阪府茨木市の二重の環濠を持つ集落である東奈良遺跡です。環濠内には高床式倉庫やたくさんの住居があり、金属工房跡から中型銅鐸の鋳型が35点も出土したほか、銅戈や勾玉などの鋳型も発掘されました。この遺跡は中型銅鐸などの生産集落であり、周辺地域との交易が行われていました。この地で造られた中型銅鐸は、大阪府豊中市(桜塚銅鐸)や兵庫県気比(3号銅鐸)、香川県善通寺市(我拝師山銅鐸)をはじめ瀬戸内海沿岸や中国地方の広い地域から出土しています。なお、東奈良遺跡の「奈良」という名は8世紀以降に、奈良の春日大社の神をこの地に勧請(かんじょう)して春日神社を建立したことに由来します。なお、大阪府茨木市奈良町の東にあるので東奈良という地名になっています。 これらの三つの遺跡はなぜ近畿だけでなく、北部九州などと深く関係するように見えるのでしょうか。その理由はこれらの遺跡のすぐそばに三島の溝咋(みぞくい)の地があることに求められます。三島の溝咋は第16回で紹介したとおり、大国主命の妻になった勢夜陀多良比売の出身地で、出雲の大国主命が政略結婚により掌中に収めた地です。神戸市灘区桜ヶ丘からは、出雲の加茂岩倉遺跡と同じ鋳型で作った同笵の中型銅鐸が出土しています。阪神電鉄の尼崎駅の東隣りの駅は大物(だいもつ)駅(写真)であり、この駅名は大物主命(大国主命)に由来します。大物駅から徒歩5分の地には大物主(おおものぬし)神社(写真)があり、主祭神はもちろん大物主命です。この神社は大物主命の妻になった宗像神社の三女神も祭神としていることから、「宗像東宮(むなかたの ひがしのみや)」とも呼ばれていて、やはり北部九州と関係があります。 神戸から茨木にかけての地は、出雲を介して北部九州とのつながりがあり、中型銅鐸を鋳造して九州、四国、中国地方とも交易していたと思われます。この時代の九州勢と近畿勢は、常に敵対していた訳でもなく、常に友好的だった訳でもないように思います。ある時は大国主命のように政略結婚により衝突を回避することもあったでしょう。ある時は中型銅鐸などの交易が行われる小康状態の時代もあり、また小競り合いになった時期もあったことでしょう。いずれにしても、高地性集落が築かれていたのですから不安定な時代だったのです。 そして、3世紀後半になると、高地性集落はこの地域から奈良にかけて集中して築かれる騒然とした時代になりました。これらの高地性集落同士は狼煙台(のろしだい)を備えてネットワークになっており、古代の光通信網になっていました。例えば前回の地図で、①会下山から発せられた情報は、②垂水、③鷹塚山、④幣原、⑤飯岡、⑥椿井などを経て⑦東大寺山へと伝達されていたと考えられています。そして、東大寺山のふもとには多重の環濠に囲まれて銅鐸や銅鏃の工房を備えた唐古・鍵(からこ かぎ)集落がありました(第4回参照)。また別経路として生駒山地から金剛山地(二上山、葛城山)の山々などにも狼煙台の通信網があったので、唐古・鍵集落への連絡は一つの高地性集落に障害があっても機能する多重機能を持っていたのです。 この神戸から大阪にかけての瀬戸内海沿岸地域は、基本的には高天原勢力の東進を阻む最後の砦(とりで)だったと思います。瀬戸内海の制海権を握る槁根津日子とも深い関係にあったように思えます。特に田能遺跡は、伊波礼毘古に帰順する前の槁根津日子の本拠地の一つだった可能性もあります。 しかし、280年頃に伊波礼毘古が瀬戸内海へ進軍してくると、槁根津日子は奈良勢力を見限って伊波礼毘古に帰順するという決断を下して、大阪(奈良)への海路を先導しました。おそらく槁根津日子は、大国主命から高天原への国譲りが行われたことを把握しており、さらに鉄鏃で守る高天原勢力と、石鏃や銅鏃で守る奈良勢力の国力を比較して、どちらに加勢したら有利かを適確に判断したのだと思います。 このように、槁根津日子の水軍が帰順したことにより、伊波礼毘古は大阪(その先の奈良)への攻略の目途が立ちました。しかし、いざ船を降りて陸上戦に移ると、たちまち困難に直面することになったのです。その辺の経緯は次回にお話しします。 高橋 永寿(たかはし えいじゅ) 1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。邪馬台国の会会員。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。

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