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第3回 投げ捨てよう、「哲学の専門家と非専門家」なんて枠組みは。

ネオ高等遊民です。

前回、哲学の歴史は能動的に学ぼうという話をしました。

能動的な学びとは、自分自身が納得できるような形での理解を生み出すことだと書きました。

「でもそんなことって、専門家やそれに近いくらい哲学に詳しい人でなければできないんじゃないの?」

こんな疑問が出てきたところで前回は終わりました。

そこで今回は、この疑問を考えつつ、専門家と非専門家なんて枠組みは取っ払ってしまおうよ、と提案してみます。

こんな提案をするのも、わたくしネオ高等遊民だからこそ言えることです。

というのも、ネオ高等遊民という人間は、公平に見て「専門家と非専門家のあいだ」のような人間だからです。学者や研究者という意味での本物の専門家ではないが、哲学を全然知らない人からすれば十分に専門家に見えるはずです。そして、既存の枠組みでどっちともつかない中途半端な存在こそが、そもそも枠組み自体を壊してしまえる可能性を持っているのです。

とはいえ、そんな大それたことを主張するつもりはありません。私の言いたいことはただ、「自分は専門家じゃないから……」「専門家にはとても及ばない……」などと考えてもあんまりいいことがないから止めようよ、もっと楽しく学ぼうよという話が、全体の趣旨です。

なぜ専門家と非専門家という枠組みを破壊するのか?

さて、専門家と非専門家という枠組みは自然発生的っぽいですし、そもそもなぜ壊す必要があるのでしょうか。医療に関する言論とかを考えればすぐわかるように、専門家の言論と非専門家の言論はどう考えても対等に扱うべきではありません。標準医療と民間療法を区別しないようなものです。

ですから、私が壊そうとしているのは、外的な枠組みではなく、内的な(心理的な)枠組みです。哲学を能動的に学ぶという目標を阻害するような心理的な枠組みのことで、それを取り除きたいのです。たとえば、私たちは通常、こんなふうに考えるのではないでしょうか。

「哲学の歴史を全体として理解することは、専門家でもない限りできない」

「非専門家は、専門家に劣った仕方でしか哲学史を理解できない」

こういった考えは、私たちを能動的なあり方から遠ざけ、受動的にさせてしまいます。なぜなら、自分には変えられない外部の原因のために、自分の可能性や能力を発揮することが制限されているからです。学びが受動的になると、自分で問いを立てたり、学び方を考える機会が減ってしまいます。その結果、自分で考える習慣を失い、ある本の丸暗記に走ったり、「誰々はこう言っている」という受け売りに終始するような学び方になります。これはあまり好ましくはないですし、本当に哲学を学んでいるという気もしないでしょう。

したがって、もしも専門家と非専門家という枠組みが、私たちの学びにとって心理的な障壁になっているならば、それは取っ払ってしまおうよと提案したいのです。

「専門家でないと理解できない」という考えの誤り

もちろん、実際に哲学の通史をまんべんなく理解することは難しいですから、「哲学史は、専門家でなければ語れない」といった考えを事実として受け取っている方も多いのではないでしょうか。ところが決して事実ではないのです。その理由をお話しします。

この考えが間違いである理由はいくつかあります。ここでは2つ述べてみます。

1.学問研究は細部の分析であるのに対して、哲学史は全体の描写だから

まず1つは、専門家にとっても哲学史の理解と叙述は難しいからです。専門家にしても本当に詳しいのはごく一部です。というのも、専門家が取り組む学問研究とは、細部のピンポイントを徹底的に明らかにするものであるのに対して、哲学史とは全体像をおおまかに描くものであるからです。両者はある意味では全然違う取り組みなのです。

たとえば、あるプラトン学者がいたとして、「プラトンの『国家』第3巻における「高貴な嘘」について」などには世界一詳しいが、「プラトンの『国家』第4巻における「魂の三分説」について」などには標準的な解説以上のことはよく知らない、なんてことはザラでしょう。

そしてそのプラトン学者が、 哲学史的な全体像を理解しているかどうかは決して自明ではありません。 たとえば「結局プラトンのイデア論ってどういうものなんですか」「プラトンって歴史的に言ってどんな点が偉大なんですか」と聞かれて、サラサラと一定の見解を必ず答えられるとは限りません 。むしろ、細部を知れば知るほど、全体について迂闊なことは言えなくなってきます。

古代が専門の方であれば、 中世や近代や現代の哲学について問われれば 、事典的な程度の知識はあるか、まったく知らないというレベルでも何も不思議はありません。アベラールについては何も知らないプラトン学者がいたとしても、それはいたって普通のことです。

したがって、哲学史を学ぶことに関しては、別に専門家であっても非専門家であっても、スタート地点はそれほど変わらないと言ってしまってよいのではないでしょうか。

両者に違いがあるとすれば、哲学について多く学ぶための時間(ゲーム風に言えばプレイ時間や可処分時間)の差や、大学で講義するなどの生活上差し迫った必要性があるかないかくらいでしょう。両者には量的な差があるだけで、質的な差はないのです。

2.そもそも学問においては正確な知識の内容がコロコロ変わるから

もう1つの理由は、何が正しい知識であるかは、時代によって簡単に塗り替えられるからです。極論すれば「正確な事実を取り扱う」などということが、そもそも不可能な思い込みです。

どんな学問にも言えることですが、昔の正しい知識や事実は、現代では誤っているなんてことはよくあります。経験できるものを取り扱う科学の世界においても、哲学の世界以上に頻繁に起こっています。

歴史においても、「正しい」とされる解釈や理論が時代とともに変化します。あるいは、新しい発見や解釈によって、長年信じられてきた「事実」が覆される可能性もあります。というより、学問研究とは、事実や正しさを更新する営みです。

したがって、単なる知識量が哲学の理解や貢献の絶対的基準になることはありえません。そのたくさんの知識は、常に知識ではなくなる可能性を秘めているからです。いままでの蓄積が無意味になる瞬間というのが、とりわけ哲学には訪れるものです。

この意味では、「事実はなく、解釈だけがある」などという言説にも一理あると思います。解釈とは、ものの理解の仕方です。1つのテキストに対して、多様な解釈がありえます。むしろ解釈の多様性が、そのテキストの豊かさや生命力の証拠であるとも言えます。

そうであれば、哲学にはいろいろな解釈(理解の仕方)があって良いし、積極的に自らの解釈を作り出すことも許されているはずです。まさか専門家でなければ解釈すらできない、あるいは解釈する権利さえ与えられないということはありえませんから。

むしろ学者の仕事というのは、有象無象の解釈がはびこる中にあって、「正確さ」や「事実」を選別することにあると思います。知識と解釈のせめぎ合う地点が、学問研究の現場です。その成果を、私たちはふんだんに学びつつ、自らの解釈を深めていくことができます。

以上から 、「自分は専門家ではない」という理由で、非専門家が自分の可能性を過小に見積もることは慎むべきだと、私は考えています。知識の量や正確さは、絶対的な基準ではなく、あくまで哲学の理解を助ける1つの尺度に過ぎません。

哲学を学ぶときくらいは、少しだけ能動的に生きられるチャンスがある

これまでの話は、専門家と非専門家という枠組みはそれほど強固なものではないということを言いたいものでした。それは別に、専門家との敵対や対立を煽りたいわけではまったくなく、私たちが哲学を学ぶ上で持ちがちな、小さな心理的な障害を取り除こうという、ごくささいな事柄を達成するためです。それによって、哲学の学びが少しだけ能動的に、自由に、楽しくなればいいなと思っています。

ところで「ネオ哲学史」では、「哲学とは学説のみならず、生き方でもある」という見解を繰り返していますが、生き方というのは、能動性・受動性と深くかかわっていますね。だれしも自由に生きたいと思うものですが、いろいろと制約もあるし、世の中は自分も含めてみんな他人を支配しようとしていますから、誰しも人とかかわるうえでは受動的にしか生きられない側面があります。完全に能動的に生きている人は、ストア派のいう「アパテイア(非受動)」の境地にあるということですから、そんな人は実在しません。

実際の人生において能動的に生きることは難しいですが、哲学を学ぶという状況に限って言えば、ここでこそ能動的なあり方ができるのではないでしょうか。なぜなら、哲学の学びには、試験も資格もないし、そもそも人生で学ばなければならない必要性がないからです。「あなたもいつまでも遊んで(働いて)ないで、いい加減に哲学を学びなさい」などとのたまった人間は、歴史上ただ1人も現れていません(たぶん)。むしろ哲学は「若いころに学ぶのは大いに結構だが、いい年になったらいい加減にやめなければならない」と言われるものです(プラトン『ゴルギアス』)。ですから、哲学は自由に学び始めることができるし、自由にやめることができます。いやいや学ぶ必要などありませんし、他人に学び方を強制される必要もありません。自虐的に言えば、哲学を職業や飯のタネにしようなどと色気を出した者だけが、哲学を受動的に学ぶという愚行を犯すことになります。

また、哲学には「科学的に効果的な学習法」などということもほとんどないので、学び方や掘り下げ方、楽しみ方がかなり自由です。ですから、哲学の学びを通じて、自分の経験や視点、創意工夫を大切にしながら、物事の理解や思考を深めていくことができるでしょう。

具体的にはなんでもありです。哲学書の古典を読むのもよし、解説書を読むのもよし、読書会に参加して意見交換をするもよし、自分なりの考えをまとめて発表するのもよし、自分の生活や仕事・趣味についてなにか哲学っぽく分析してみるのもよし。それぞれ自分に向いているもの、楽しいものがあるでしょう。自分自身を何よりも尊重すべきです。

今回の話は以上です。専門家であろうが素人であろうが、そのような枠組みにとらわれず、自分なりの哲学との付き合い方や楽しみ方を見つけてくださればと思います。


ネオ高等遊民

日本初の哲学YouTuber。タイ在住。著書『一度読んだら絶対に忘れない哲学の教科書』(2024)。
YouTubeチャンネル「ネオ高等遊民:哲学マスター」:https://www.youtube.com/@neomin

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