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第3回 マリー・アントワネットは美味を理解していたか

18世紀のヌーベル・キュイジーヌがフランス料理を大きく進化させ、それが現代フランス料理の基礎として今なお息づいていること、さらにこの時代以降、庶民の食べ物とみなされていたバターやクリームといった乳製品が高級料理に用いられるようになったことは、前回説明した通りである。

こうした料理がこの時代に受け入れられるようになった理由のひとつは、当時の一部の思想家がヌーベル・キュイジーヌを支持していたことにある。彼らは、これを啓蒙思想に適う、新しい食の価値観だとして後押ししたのである。よってこの時代の料理の変化は、単なる技術革新にとどまるものではなく、思想的転換と軌を一にする文化的変容だったといえるだろう。

実際に、18世紀中葉以降に刊行された料理書を参照してみると、高級料理(オート・キュイジーヌ:haute cuisine)で、バターやクリームが頻繁に用いられていることが確認できる。このことから、王侯貴族をはじめとする上流階級にも、乳製品を用いた料理が広く受容されるようになっていたこと、さらに、こうした新しい食の価値観が社会に浸透していたことがうかがえる。

18世紀フランスのファッション・リーダー

いかなる時代においても、ムーブメントや流行の背後には、必ずファッション・リーダーの存在がある。なぜなら、たとえ魅力的な価値観が生まれたとしても、時代のアイコンとなり得る人物の姿と結びつかなければ、それが大きな潮流へと発展することがないからである。新たな料理の価値観が大衆(ここでいう大衆とは主にブルジョワジーを指す)に受け入れられるためには、その料理が圧倒的に「美味」であることがもちろん重要である。しかし、それ以上に重要なのは、それを誰が好み、誰がそれを消費しているかの方である。

18世紀のフランス王宮では、時代を前後して他の追随を許さない二人のファッション・リーダーがいた。ひとりはルイ15世の愛人だったマダム・ポンパドゥールであり、もうひとりがルイ16世の正妃だったマリー・アントワネットである。

この二人は対照的である。マダム・ポンパドゥールは知性に溢れ、優れた美的センスと才気を備えた女性だった。彼女は思想・芸術・飲食物で強く刺激があるものを好んだとされている。平民出身だった彼女は、王の寵愛を獲得すべく、自身の才能を遺憾なく発揮しており、かなり上昇志向の強い人物だったとされている。

それに対して、マリー・アントワネットは、オーストリアのハプスブルク家に末娘として生まれたことも影響してか、知性的というよりは、素朴で牧歌的な柔らかさを備えた女性であったと評されることが多い。彼女は浪費家で、菓子や乳製品を殊のほか好んで食べていた。実際、こうした嗜好こそが、結果として彼女の莫大な支出を招く原因となっていたのである。今回は、彼女の乳製品へのこだわりと、それがどのようにフランス国家の浪費を招いたのか、その背景を明らかにしていきたい。

マリー・アントワネットと乳製品

マリー・アントワネットの乳製品好きを示す初期のエピソードが、『未公表の秘密書簡』の1777年7月15日に記録されている。

土曜日にトリアノンに滞在していた王妃は、発熱からかなり回復したようだが、フロマージュ・ア・ラ・グラス(fromage à la glace)を食べたいと言い出し、再発熱してしまった。

フロマージュ・ア・ラ・グラスとは、牛乳・クリームをつかったアイスクリームのことである。製氷技術が未発達であった時代において、アイスクリームは今日とは比較にならないほど贅沢な菓子であった。

当時21歳であったマリー・アントワネットが、病み上がりにもかかわらず、これを求めたことからも、この菓子を相当好んでいたことがうかがえる。その後、再び発熱したことも記録されている。

プチ・トリアノン宮の「王妃の村里」

マリー・アントワネットは、ベルサイユにあるプチ・トリアノン宮に、1783年から1786年にかけて、「王妃の村里」(ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ:Le hameau de la Reine)という田園風の模擬集落を建て、そこで気の置けない仲間たちと親しく過ごすようになった。敷地内には、王妃の館を始め、鳩舎、私室、水車小屋、マールボロ塔、納屋、衛兵の家、酪農小屋など、素朴で田舎風の外観の建物が配置された。建物は茅葺屋根で、壁は柱と漆喰の農家風になっているが、内装や調度品は豪華にしつらえられており、ここでマリー・アントワネットは浮世離れした感のある田園風の暮らしを楽しんだのである。

当時はルソーの思想の影響によって田園生活が上流階級のあいだで流行しており、時代のファッション・リーダーだったマリー・アントワネットも、こうした潮流に従い、農村風の暮らしを楽しんでいたのだろう。しかしその実現のため、多額の建設費や維持管理費が国庫から支出されることとなった。こうした莫大な支出も、彼女が国庫を浪費する王妃として民衆からの不興を買う一因となった。

マリー・アントワネットはこうした田園趣味(当時の上流階級の人々のトレンド)を満喫することで、ルソーの小説『新エロイーズ』の女性主人公のジュリに自身を重ね、またルイ16世との間に生まれた4人の子どもたちを、ここでルソーの『エミール』のように無垢で純朴な自然人のように育てようとしていたのかもしれない。

まるでテーマパークのような「王妃の村里」で、マリー・アントワネットは田園生活の雰囲気を楽しんではいたが、もちろん実際の農作業そのものを担っていたわけではない。農園管理と作業は全て、スイス移民のヴァリー・ブサール(Valy Bussard)とその家族が担っていたからである。「王妃の村里」の農場では、スイスからヤギや牛が連れてこられ、ブサールが搾乳された乳でチーズなどの加工品を作っていた。彼はスイスのグルエール地方出身で、チーズを作る高い技術があったことが採用の理由だったように思える。ちなみに、フランス革命期にマリー・アントワネットがタンプル塔に幽閉されていたあいだも、ブサールは「王妃の村里」から彼女のために牛乳を運び続けていたそうである。

この「王妃の村里」には、マリー・アントワネットが乳製品を味わうためだけの場所、「酪農小屋」と呼ばれる建物があった。この建物こそが実は「王妃の村里」の心臓部なのだとわたしは考えているので、詳しく説明しておきたい。

酪農小屋(Laiterie de propreté)

「酪農小屋」は特別な鍵を持つヴァリー・ブサールが、清潔な環境のもとで牛乳を味わえるように管理していた。建物内の気温を低くするために床は大理石で作られ、床下には水が流れるようになっていた。部屋の中央には大理石製のテーブルが備え付けられてあり、ここでマリー・アントワネットたちは乳製品を味わっていたのである。

乳製品のためだけに特別に誂えられた高価な陶器もそこには備えられた。ここで使われていた陶器はアンドレ=マリー・ルブーフの工場で制作され、1786年11月28日に王妃の村里に納品されている。フランス国立公文書館には、その時の納品書が残されており品目、個数、値段が分かっている。

当時の労働者の日当を仮に1リーヴルほどとすれば、この陶磁器セットの代金6,372リーヴルは単純計算で労働者約6,400日分の賃金に相当する。マリー・アントワネットは乳製品そのものに加えて、それを喫するための環境、建築物、器といったしつらえにこだわり、これらが莫大な浪費につながっていたのである。

ランブイエ城

「ランブイエ城」は、ルイ16世が1,600万リーヴルという当時としては莫大な金額で買い取った別邸である。狩猟を好んだルイ16世はこの城をことのほか気に入っており、1783年に購入してから1788年までの5年間に、実に157回も訪問したという記録が残っている。しかし、マリー・アントワネットは、優雅さに欠けるランブイエ城を「ヒキガエルの棲み処(crapaudière)」と呼び嫌っていた。

それでもルイ16世は、マリー・アントワネットにランブイエを訪れてもらおうと、敷地内に「王妃の乳製品施設(レトリ・ド・ラ・レーヌ:La Laiterie de la Reine」)」を建造した。建築は当時流行していたエトルリア様式で、内装は豪華かつ贅沢に設えられている。建物のエントランスを入ると、まず大理石製の円卓が置かれた牛乳のテイスティング・ルームがあり、王立のセーヴル磁器製作所で制作された、乳房の形を模したカップが備えられた。その奥は乳製品を冷却・保管するためのフレッシュ・ルームになっていた。その室内には滝があり水が流れていて、そこに牛乳を入れた壺を沈めて冷やすことができる仕組みである。この建物はマリー・アントワネットが乳製品を味わうためだけに、特別に建造されたのである。

国庫から乳製品のためだけにこれほど莫大な費用が投じられたにもかかわらず、ランブイエ城を嫌っていたマリー・アントワネットが実際にこの地を訪れたことはほとんどなかった。つまり、彼女の嗜好に合わせて建造された施設が、結果としてほとんど利用されないまま、多額の支出を生んだことになる。ちなみに同城はかつて、フランス大統領の別邸として利用され、各国の要人を迎える外交の舞台ともなっていた。

マリー・アントワネットは美味を理解していたか

ここまでで、マリー・アントワネットの乳製品に対するこだわりのようなものを理解いただけたのではないだろうか。しかし「美味求真」という観点からすると、彼女のこだわりや嗜好には色々と考えさせられるものがある。

彼女の嗜好は、ジャン=ジャック・ルソーの思想に基づく「自然回帰」という当時のトレンドにも影響されていたと考えられるが、彼女自身がその思想を深く理解していたとは言い難い。なぜなら、彼女は読書を好まず、生涯を通じて一冊の本を通読したことがなかった(シュテファン・ツヴァイク著『マリー・アントワネット』)とすら言われているからである。ルソーが理想的女性像としてジュリを描いた、当時の大ベストセラーの『新エロイーズ』でさえ、まともに読んでいなかったのかもしれない。

同じくファッション・リーダーとして時代を牽引したマダム・ポンパドゥールは読書家で、ディドロらによる『百科全書』の出版を支援していた。また、彼女のサロンにはヴォルテールを始め多くの思想家たちが出入りしていたことからも、当時の啓蒙思想に深く通じていたと考えられる。もしマリー・アントワネットも、こうした啓蒙思想の本質を十分に理解していたならば、時代の空気を読み取りつつ、莫大な富を自身の浪費に費やすのではなく、より公共的な目的へと振り向けるなど、異なる消費のあり方を選び得たのかもしれない。

皮肉なことに、マリー・アントワネットは、ルソーの思想とも呼応する当時の「自然回帰」の潮流のなかで、好んで乳製品を飲食してきたのだが、逆にそのルソーの思想が少なからぬ影響を与えたフランス革命によって断頭台へと昇り、処刑されるという皮肉な結果になってしまったのである。

彼女が言ったとされる有名な「パンがなければお菓子を食べればいい」という言葉は、彼女の評判を貶めるかたちで後世になって彼女に結びつけられた逸話である。この逸話の原型は、ルソーが著した『告白』に記されており、「ある高貴な婦人」が「パンがなければブリオッシュを食べればよい」と語ったとして紹介されている。しかし、この貴婦人とマリー・アントワネットでは年代が合わず、彼女がこの言葉を口にしたわけではないことは明らかである。それにもかかわらず、これがあたかもマリー・アントワネット自身の発言であるかのように定着してしまった。このようにルソーの著述が、結果として後代におけるマリー・アントワネットのイメージをいっそう貶めることになってしまったのは、さらに皮肉なことだといえよう。

木下謙次郎『美味求真』には、「美味を好む人が、必ずしも味を理解する人であるというわけではない」と述べられている(『現代語訳 美味求真』41ページ)。残念ながら、マリー・アントワネットは乳製品に対して並々ならぬこだわりを持ち、莫大な費用を投じていたが、その背後にある時代の思想的本質を理解してはいなかった。その乖離は、彼女自身の悲劇的な最期を考えるうえでも示唆的なものだったといえるのではないだろうか。

マリー・アントワネットはファッション・リーダーとして時代の価値観に大きな影響を与えた女性だといえる。しかし「美味求真」という観点からは、その嗜好は「美味」への深い理解にまで至っていたとは言い難い。彼女がもう少しでもルソーの思想の本質を理解していたとすれば、その生涯の閉じ方も違ったものになっていたのかもしれない。

 ※タイトル画像背景:髙山辰雄「食べる」(1973年、大分県立美術館蔵)。著作権者の許可を得て使用


河田容英(かわだ・やすひで)

一九六九年(昭和四十四年)生まれ。大学生向けの海外留学支援企業・株式会社ログワークス代表取締役。また社会人ビジネスパーソンがイギリス国立大学や欧州大学のMBA(経営管理学修士)およびDBA(経営管理学博士)を取得するための教育企業・エグゼジャパンビジネススクールの代表を務める。自然言語処理の研究にも従事し共著論文多数。イギリス長期滞在時に幾つもヨーロッパのレストランを訪ね、海外での食と文化に数多く触れる機会を得たことや、帰国後に海外諸国と日本の食文化の相違、類似、ありかたを思想的視点から捉えなおすようになったのを機に、二〇一六年より郷里の政治家・木下謙次郎の著書『美味求真』の現代語訳に着手しウェブサイトで公開を始める。その後、『美味求真』に注釈を付すという方法で食にまつわる文化、歴史、哲学に関する記事を発信し続けている。
https://www.bimikyushin.com/

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