第1話 東三条邸の月
――承平六年九月十二日(西暦936年10月)。 呼び出された寝殿には、華やかでいてしっとりとした香りが漂っていた。高貴な客人があったようだ。 居並ぶ女房たちの顔つきが険しい。ざわめきも消えていない。 邸内全体が、今にも降り出しそうな雨雲に包まれているようだ。 しかし、真白は大好きな父からの呼び出しだということにはしゃいでいる。のしかかっているほどの重苦しさにも気がつかない。 上座に向かって駆け出しそうになる真白の袖をつかみ、照葉はどうにか止めた。 「なぜ止めるの。早く、お父さまとお話がしたいのに」 「お待ちください。このようなとき、姫君さまはお声がかかるまで待つものです」 御簾は下りたまま、誰の気配もない。 不満そうに真白は唇を噛んで拗ねたが、その場に座って背筋を伸ばした。乳母が満足げに頷く。 やがて、衣擦れの音が聞こえてきた。 するすると、御簾がゆっくり巻き上がる。真白の父・重明(しげあきら)親王が姿をあらわした。 今日も胸を張って堂々としている。明るい笑みが、陽の光のようにまぶしい。 仕立てのよい装束からは、品のある馨りが感じられる。思わず見とれてしまった照葉だが、急いで頭を下げた。 駆け出してしまうかと思われた真白も、じっとおとなしく座って父のことばを待っている。体だけではなく頭も動かさずにいる姿は、雛人形のようだった。 「真白や、元気にしていたか」 そのひとことで、真白は生き生きと頬を輝かせ、口を開く。 「お父さま。ええ、真白はとても元気よ。さっきまで、庭で遊んでいたの。でも、鞠が池に落ちてしまって。照葉がね、取ってくれようとがんばってくれたのだけど、乳母が止めたせいでとうとうそのまま」 愛らしい身振り手振りを交え、真白は父に告げた。乳母……照葉の母は苦笑いを浮かべ、真白を制止する。 「真白さま。言いつけるなど、あんまりです」 「そんなこと、していません。たまには、池ぐらい入ってもいいでしょう」 そっぽを向いてしまった真白を見た重明は、穏やかにほほ笑んだ。 「健やかそうで、とても嬉しく思う。しかし、真白や。お前は、帝の孫……女王だ。使用人がけがをしないよう、常に気を配らなくてはならない。照葉、真白が無理をさせてしまったね。けがはなかったかい」 重明が、照葉に声をかけた。照葉は恥ずかしくて、ひたすら身を縮こませた。 「だ、だいじょうぶです。かすり傷程度で、なんてことはありません。姫さまが大切になさっておられる鞠を持って帰れなくて、申し訳なく思います」 その返答が良かったのか、良くなかったのか。真白が照葉の肩に手を置いた。 「かすり傷? けがをしてしまったのなら、私のせいね。ねえ、傷をよく見せて。薬を塗ってあげます」 「い、いいえ。ほんの少し擦ったぐらいなので、真白さまの手を煩わせるほどのものではございません」 元気の証拠に、照葉は腕を回して見せる。その様子に、重明は目を細めた。 「照葉はほんとうにやさしい子だね。真白、照葉の心づかいを学びなさい」 「お父さま。照葉のことは、私がいちばん良く知っています。照葉は、私の照葉です」 曇りひとつない笑顔の真白に、照葉はさらに頭を床にこすりつけた。 「もったいないおことばを。どうか、これ以上はご容赦を」 「そんなことは言わないで。私、照葉のことは姉のようだと思っているのに」 「ありがとうございます。照葉は、しあわせです」 照葉は、真白に抱え起こされた。握られたその手は、透き通るように白くてどきりとした。 目頭を袖でおさえている乳母が、照葉の目の端に入った。 「ねえ、お父さまもそう思いますよね」 上座から下りた重明は、真白たちの前に移りながら口を開く。 「そうだね、照葉が長く真白のそばにいてくれたら頼もしいよ。さて、姫。今日はそなたに話がある。おいで、真白」 乳母が勧めた円座(わろうだ)[藁(わら)などを渦巻状に編んだ、円形の敷物]に腰を下ろした重明は自分の膝を叩き、娘に手招きした。すぐさま真白は反応し、父の膝に飛び乗る。 重明も、背中までしか伸びていない真白の髪を、いとおしそうに何度も撫でた。 「お手が冷たいです。私があたためて差し上げますね」 そう言うと、真白は父の手を小さな手のひらで包んだ。 「お庭がよく見えます、お父さま」 あの木に登った、向こうの池に鞠を落としたなどと、真白は父に話しかけた。重明は途中まで頷きながら聞いていたが、徐々に表情を険しくしていった。 「真白がこの邸を気に入っていることは、よく分かったよ」 「このお邸に仕えている人も、みんな好き。乳母も照葉も、女房たちも。私、ここを離れたくないわ。お父さまには、お歌やお琴を習いはじめたばかりだもの」 無邪気な真白の声がすると、照葉の背後に控えていた女房があちらこちらですすり泣きをはじめた。 なぜ、ここで泣く? しかし、振り返れない。 父と娘のしあわせな光景なのに、黒い墨が一滴、ぽとりと落とされたような不安に襲われた。 「姫や、よく聞きなさい」 髪を撫でる手を止め、重明は真白の目を見つめてゆっくりと話しかけた。 父の袖にじゃれついていた真白だったが、その声色が常ではないと感じたようで不意に動きを止めた。照葉も息を呑む。 これから、真白にとって大切なことが告げられる――照葉はざわめく胸に手を当てた。
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