第24回 学問の政治化に抗するハイデガー
前節ではハイデガーが1960年代のわが国の学園紛争の際に、学生たちにどのように受容されていたかについて、当事者であった長崎浩の証言に即して紹介した。長崎によると、日本の学生たちはハイデガーを反近代の「政治行動への哲学的アジテーター」として受け止めていた。そしてこのことは、1933年にナチスが政権を奪取した際にドイツの大学のナチ化を先導した学生たちにおいても同じであった。 このように長崎は日本においてもドイツにおいても、ハイデガーの反近代の哲学が若者たちに政治的行動へのアジテーションとして受容されていたことを強調する。学生たちがハイデガーをこのように受け止めていたというのはその通りかもしれない。しかしこうした長崎の解釈はハイデガーの「存在への問い」の根本的意図、すなわち実証科学に対抗して、それに代わる真の「存在」の知を示すという学問論的意義を見落としている。本連載でこれまでも見てきたように、ドイツの大学のナチ化を主導した学生たちも元来、実証科学が「生から疎遠である」ことを批判し、この「古い学問」に対して人間的生の全体を捉える「新しい学問」を求めていた。長崎の議論はドイツの学生運動の背景にあった、こうした学問の刷新への要求を度外視してしまっている。 しかしこの点については、長崎だけを責めるのは酷であろう。というのも、学生運動自身がその展開過程において過激な破壊行動へと突き進んでいったため、学問批判というモチーフが後景に退いてしまったという事情があるからだ。そもそもハイデガーが学長職を引き受けたのも、学生たちを学問の刷新という原点に立ち返らせようとする意図があった。しかし、その彼も学長に就任してから早々に、自分が学生たちにほとんど影響力をもたないことを認めざるをえなくなった。在任一年足らずで学長を辞任したハイデガーは以後、学問の刷新という課題に対する学生たちの無能さを厳しく批判するようになる。 日本の学生運動にも科学批判という側面がないわけではなかった。そこではヴェトナム戦争の激化や公害問題の深刻化という世相を反映して、科学の軍事利用や企業の利潤追求への従属が主として問題とされていた。しかしこうした科学批判は科学の善用の可能性を想定しており、実証科学のあり方そのものを根本から批判するものではなかった。また学生運動の力点も科学批判に置かれていたようには見えない。それはやがて社会から遊離して過激化し、世間を震撼させるテロ行為の数々をもたらして自壊していった。 その後、そうした左翼運動とは一線を画する形で、既存の制度的学問に対する批判が大衆消費社会にふさわしいファッショナブルな装いで一世を風靡した。ニューアカデミズムと命名されたフランス現代思想ブームのことである。1980年代前半に構造主義からポスト構造主義に至るまでのフランスのポストモダン思想を明快に解説する浅田彰(1957-)の著書『構造と力』[1]がベストセラーになった。これをきっかけとして、フランス現代思想やその影響を受けた文芸評論、社会批評などが注目を集めるようになった。ポストモダン思想はその名が示しているように近代批判に棹さす思想であった。この現代思想ブームが既存の制度的学問とは異なる新しい知を求める運動としてニューアカデミズムと呼ばれるようになったのである。 私が1980年代後半に大学に入学したときには、まだ数年前のニューアカデミズムのブームの余韻が残っていた。私の専攻は経済学であったが、ひょんなことからニューアカデミズムのことを知った。私は大学の教養課程で第二外国語としてフランス語を選択していた。初級文法をひととおり習い終わったあとに読まされたテクストが、ポスト構造主義の文芸評論家として知られるロラン・バルト(1915-1980)の『神話作用』に含まれるいくつかのエッセイであった。バルトはそれらのエッセイで、フランスの日常生活に付きものの、それこそ「フランス的」とされる諸事物の「意味作用(signification)」を分析している。授業では「ビフテキとフライドポテト」や「ワイン」について書かれたエッセイを読んだことを覚えている[2]。 これらのテクストは語学的にも、また内容的にも当時の私には難しく感じられた。しかしバルトの語り口には妙に惹きつけられた。これをきっかけに大学の図書館でバルトに関連する書物をいろいろ探して読んでいるうちに、彼の思想に言及するニューアカデミズム関係の出版物に行き当たった。そこから私はニューアカデミズムで高く評価されていたミシェル・フーコー(1926-1984)やジル・ドゥルーズ(1925-1995)、ジャック・デリダ(1930-2004)など、いわゆるポストモダンの思想家にも興味をもつようになった。 このように私は大学に入学してから、哲学に強い関心をもつようになった。大学入学時に選んだ専攻は経済学であった。しかし最初の二年間の教養課程の在籍中は、まだ専門教育が始まっていなかったので現代思想に関係する書物をいろいろと読みあさっていた。大学三年で経済学部に進学して最初の一学期間は、経済学もまじめに勉強していた。しかしその後、経済学を学ぶ意欲が急速に失われてしまった。そもそも私が経済学を専攻したのは、法学や文学といった他の文系学問と比較して、経済学が確固たる事実を取り扱う学問だと考えたからであった。ところが経済学を学ぶにつれ、経済学が扱う「客観的事実」が現実を恣意的に切り取ったものでしかなく、そうしたものは自分が求めている知ではないという思いが募ってきた。 たとえばマクロ経済学ならば、物価上昇率であれ、失業率であれ、経済成長率であれ、何らかの指標なしには研究を一歩も進められない。これらの指標は自然に手に入るものではなく、所定の手続きに従ってはじめて確定されるものである。物価上昇率を例に取ると、まず物価を計測する商品の範囲を定めなければならない。そのうえで、今度はそのように決められた商品の価格のデータをいつ、どこで収集するのかも決定しなければならない。それに従って確定された個々の商品の価格をどのように平均して、商品全体の物価上昇率を算定するかについてもあらかじめ定められたルールが必要であろう。 このように面倒な手続きを経て得られた物価上昇率をわれわれは客観的な事実と見なしている。しかしそれは上で見たように、人間が定めた基準に従って幾重もの操作を経て生み出されたものでしかない。しかも経済学の仕事は、物価上昇率などの個別の指標を確定するだけにとどまらない。そこから出発して、さらに複数の指標のあいだの関係を捉えようとする。たとえば物価上昇率と失業率のあいだにどのような関係があるかを捉えるといったように。ある指標と他の指標のあいだに相関(もちろん疑似的ではない)が見出されたとき、それが客観的真理として登録されるのである。 ただしどの指標とどの指標のあいだに関係を見出そうとするかは、それを見いだすことが有意義である、たとえば政策提言に役立つだろうという見込みに基づいており、ランダムに行われるわけではない。つまりここで見出された「客観的事実」は実際のところ、決して無前提的なものではなく、研究者がもつ政治的、ないしは世界観的な関心によって導かれているのである。 私には経済学的方法の以上に述べたような性格が恣意的に感じられてきた。経済学は社会科学として確固たる事実を捉える学問というイメージをもっていたのだが、それとは正反対の性格をもつように思われてきたのである。それとともに、経済学を勉強する意欲が急速に失せていった。今にして思えば、私が経済学に感じた恣意性は経済学だけに当てはまるものではなく、根本的には実証科学が依拠する対象化という手続きに由来するものであった。つまり私は経済学に興味を失ったとき、実証科学の方法の限界に突き当たっていたことになる。 その伝で言うと、私がバルトのテクストに惹きつけられたのも、そこに実証科学とは異なる物事の捉え方を見て取ったからであろう。バルトの『神話作用』はある種フランス的な事物を表す記号の「意味作用」を分析している。そこでは記号――それは「ワイン」であったり、「ビフテキ」であったりする――の字義どおりの意味を超えた共示的な意味、すなわち「コノテーション」が「神話」としてあらわにされる。 このようにある記号のコノテーションを分析するということは、その記号の単なる辞書的定義を示すこととは異なる作業である。それは記号が表す事物がわれわれにどのように受け止められているのか、言い換えれば、それがわれわれに対してどのように現れているのかを問題にしている。つまりバルトの神話分析は事実上、事物の現れ方の現象学的記述に関わっている。こうしたバルトの記号学の現象学的な性格が、当時の私にとっては新鮮に感じられたのだった。私はバルトの神話分析のうちに実証科学とは異なる、事物に対する直接的なアプローチの方法を見て取っていたと言えるだろう。こう考えると、私のバルトへの関心はその後、私が現象学や解釈学に取り組むことに対する伏線にもなっていた。 もちろん当時の私はこのような哲学的連関をはっきりと見通していたわけではなかった。単純にバルトのテクストを面白いと感じ、それを入り口にしてニューアカデミズム関連の書物を芋づる式に読み進めていたにすぎない。それらの本を読んでいるうちに、マルティン・ハイデガーというドイツの哲学者の名前をしばしば目にすることになった。そこでハイデガーはポストモダン思想に特徴的な西洋形而上学批判の先駆者として位置づけられていた。それならば、まずはハイデガーの哲学を理解する必要があるだろうと考えて、私はハイデガーの主著とされる『存在と時間』を手に取った。 最初は『存在と時間』を読んでもまったく歯が立たなかった。あまりにわからないのが悔しくて、意地でも理解したいという気持ちになった。経済学の勉強をやめてからは、ハイデガーのテクストを原書で読むためにドイツ語の学習も始めた。最初のうちはハイデガーの思想がある程度、理解できたら、ふたたびフランス現代思想に戻るつもりでいた。しかしこれはあまりにも甘い見通しであった。ハイデガーの哲学を十分に理解するためにはいくら時間があっても足りない。こうして私は研究対象をハイデガーに絞る覚悟を決めた。フランス現代思想の源流がハイデガーの哲学だとすれば、ハイデガーさえ理解できれば、そこから派生したものも理解できたことになるだろうと割り切ったのである。 今から顧みると、経済学という実証科学に満足できなかった私がハイデガーに行きついたのも、学問論的観点からはある種の必然性があった。というのも、ハイデガーの「存在への問い」そのものが実証科学によって取り逃がされた実在の真相を捉えようとする試みであったからだ。本連載でも繰り返し述べてきたように、19世紀半ば以降、ドイツでは自然科学が成功を収め、大きな社会的威信を獲得した。しかしその裏では、そうした実証科学の権威に対する懐疑もつねにくすぶっていた。19世紀終わりごろからとりわけ若い大学生のあいだで、実証科学が高度に専門化し、生の全体性を問題にできていないことに対する不満が高まっていった。ハイデガーの「存在への問い」もそうしたドイツの若者たちの実証科学に対する批判を見据えて、それに対して確固たる哲学的基礎を与えようとする試みであった。 私が学生時代に惹きつけられたニューアカデミズムも、その名称に示されているように、既存の制度化された学問の乗り越えを目指すものだった。その点でドイツの学生たちの学問の刷新を求める運動と同じ志向をもっていた。ところがこうした実証科学に代わる新たな知を樹立する試みは、これまでつねに失敗に終わってきた。ドイツにおける学問の刷新を求める運動にしても、ニューアカデミズムにしても、実証科学の覇権に対する挑戦は一世を風靡しながらも、結局、その支配を覆すことはできなかった。そうした反実証科学の運動は実証科学の本質が何であるか、またそのどのような点が問題なのかを十分に明確化できていなかった。そのためそれらが唱える学問の刷新は、得てして実証科学の非本質的な属性を攻撃するだけにとどまり、その本質を根本から変化させることに失敗してしまうのである。 ドイツにおいて「新しい学問」を求める学生たちの運動は、ナチスによる政権奪取の際に、大学において自分たちの要求を貫徹するチャンスをつかんだ。しかし学問の刷新という点では今も述べたように失敗に終わり、ドイツの大学にユダヤ人学者の追放という大きな傷跡を残しただけとなった。ニューアカデミズムは日本におけるフランス現代思想の活発な受容をもたらし、またその研究に携わる研究者を多く輩出した。しかし彼らは結局のところ、既存の大学アカデミズムのあり方をとくに変えることはなかった。ニューアカデミズムで盛んに持ち上げられたフーコー、ドゥルーズ、デリダといったポストモダンの哲学者も今ではすっかり大学の哲学科のスタンダードな研究対象に組み込まれている。 このような状況を見ると、1980年代のニューアカデミズムはそれ以前のドイツや日本の学生運動と異なり、よくも悪くも人畜無害であったと思われるかもしれない。しかし必ずしもそうではない。ニューアカデミズムが奉じていたポストモダン思想はその名が示すとおり、近代性の超克を志向している。こうしたポストモダン思想の近代批判は人文科学の諸分野、たとえば歴史学や文学研究などに影響を与え、それらの分野において近代ナショナリズムに対する批判、植民地主義に対する批判(ポストコロニアリズム)、人種差別に対する批判、男性中心主義、家父長制に対する批判に基づいた研究が盛んに行われるようになった。こうしたタイプの研究は近代的な価値規範によって抑圧された弱者や被差別者の尊厳の承認を求める政治運動、いわゆる「アイデンティティ・ポリティックス」という性格をもっていた。こうした人文科学の政治化はまずはアメリカの大学で大きな流れとなり、それがヨーロッパや日本などにも波及していった[3]。 ナチス時代の学生たちは、マックス・ヴェーバーが擁護した「価値に囚われない」学問というリベラルな学問理念を否定し、学問は政治的目的に奉仕するものでなければならないと主張した。彼らはそうした学問理念に「政治的学問」という名を与えていた。まさにこれとよく似た形で、20世紀の終わりごろから世界中で人文系の諸学問が弱者の権利擁護を唱える政治運動へと先鋭化していった。このように「政治的に正しい」学問を推進する学者や学生たちは、自分たちの「政治的正しさ」の基準に沿わない人びとに差別主義者や歴史修正主義者や極右やネトウヨなどというレッテルを貼った。そして状況によっては、そのように認定された人物を職場や公的場面から排除することも辞さなくなった(キャンセルカルチャー)。 こうした人文科学の「ポリコレ」化の流れのなかで、ポストモダン思想の祖と見なされていたハイデガーもナチスに加担した反ユダヤ主義者としてタブー視されるようになった。ハイデガーから距離を取ることが、ポストモダン思想にとっては「政治的に正しい」ふるまいとなったのである。ハイデガーは自分がその誕生に大きく寄与した思想潮流によってキャンセルされてしまった(第21回「名前を消されたハイデガー(1)」を参照)。 ニューアカデミズムの影響は今述べたような学問の政治化だけにとどまらなかった。ニューアカデミズムには既存の制度化された知とは異なる知への希求の表れとして、宗教的なもの、スピリチュアルなものの再評価という側面があった。このことは宗教学者の中沢新一(1950-)がチベット密教の修行体験に基づいて、仏教とフランス現代思想を結びつけて論じた『チベットのモーツァルト』[4]がベストセラーになったことがニューアカデミズム隆盛の象徴的な出来事と見なされていることにも示されている。 近代批判がハイデガーや日本の京都学派に見られるように、ある種の宗教性の再評価と結びつくのは珍しいことではない。しかしニューアカデミズムにおける宗教性の積極的評価は狭い学問界を越えて、ある新興宗教教団の目覚ましい拡大に寄与することになった。私がここで念頭に置いているのは1995年に大規模なテロ事件を起こしたオウム真理教である。事件後、同教団が中沢のチベット密教の著作に影響を受けていたことや、中沢自身がオウム真理教に対して肯定的な見解を述べていたことが取りざたされた。そうした個人の責任はともかく、信者のスピリチュアルなものに対する関心のうちに制度的な知には飽き足らず、それを超えた知を求める衝動があったことは確かだろう。そして信者たちのそうした欲求に、ニューアカデミズムが思想的なお墨付きを与える役割を果たしたことは否めない。 とくに教団で中核的な役割を果たした信者に理工系の出身者が多かったのは興味深い。彼らがエンジニアや研究者、医師になる通常のレールから外れたのは、彼らが携わっていた研究や専門業務に限界を感じて、それに代わる生きがいを信仰生活に見出したからであろう。それにもかかわらず、たとえばサリン製造などに見られるように、彼らは教団の権力追求のために自分たちの「専門知」によって最大限の貢献を果たすのである。ドイツの学生運動に似て、オウム真理教においても既存の知に対する不信は、真正な信仰生活の実現を阻む国家体制の転換を目指すことへとエスカレートしていった。しかしその目的を達成するために、皮肉なことではあるが、教団は既存の学問のポテンシャルを徹底的に引き出す方向へと突き進んでいった。このこともナチズムが戦争遂行のために、かつて自分たちがさんざん非難した「古い学問」を利用する方向に転換したことと相似的な現象と見なしうる(第 回「「学問の危機」論争の行方」)。 以上で見てきたように、実証科学の限界を指摘し、それを乗り越える新たな知を追求する運動はドイツの学生運動にせよ、本邦のニューアカデミズムにせよ、多くの若者たちのあいだに一時的な熱狂をもたらしたものの、結局、新たな知を確立するには至らなかった。そしてその一部は過激化し、彼らが誤って問題の根源と見なしたものを既存の体制から除去することを目指した結果、社会に大きな破壊や分断をもたらすことになった。その際、既存の学問は否定されるどころか、むしろ権力意志の伸長のために利用され、そのことにより再活性化されさえするのである。 こうした経緯を見ると、ヴェーバーの勧告に従って、近代の制度的学問に対する挑戦は無意味な混乱をもたらすだけだから、既存の実証科学をおとなしく受け入れるのが得策だと考えたくなるだろう。しかし話はそれほど単純ではない。というのも実証科学に対する批判は、それがこれまで繰り返し現れていることにも示されているとおり、抑えようとして抑えられるといったものではないからである。ハイデガーに即して言えば、実証科学は「存在忘却」を本質とする。つまり実証科学は構造上、自分が学問的に捉えようとしている事物の「存在」をつねに取り逃がしてしまう。こうした実証科学の根底にある虚無性が、それ自身に対する欲求不満をつねに生み出さないではいない。実証科学に対する批判がその度重なる失敗にもかかわらず繰り返し現れるのも、実証科学の本質的な虚無性に由来する。 しかも都合の悪いことに、実証科学の問題を克服しようとする試みはその失敗によって、かえって実証科学の支配を正当化し、強化する役割を果たしてしまう。実証科学を克服しようとしてもろくなことにならないから、おとなしくこれまでのやり方に従うのが得策だといった諦念が支配的となる。このように実証科学への批判は、一方で実証科学に対する抑えきれない不満のガス抜きの役割を果たし、他方でそのほとんど確実な失敗によって実証科学に追随する以外の選択肢がないことをわれわれに思い知らせる。こうして実証科学に対する批判はおのれの意に反して、実証科学の支配を強化することに寄与してしまう。 フライブルク大学の学長職を辞任したあと、ハイデガーは自身がそれに突き当たって挫折した実証科学の支配の根強さを踏まえつつ、その克服がいかにして可能であるかを示すことに専心した。ハイデガーは戦後になって、自分のかつての失敗を「一撃」や「作用」によって「変化」を生み出せると考えていた自身の「急ぎすぎ」に帰している[5]。知の変化は行動による作用によってただちにもたらされるものではない。ハイデガーはこのように性急なアクティビズムを根本から否定するようになる。 こうした反省に立脚して、ハイデガーは「存在の思索」にただひたすら沈潜することを求めるようになった。これまでの学問批判は、対象化には依らない事物の開示の可能性を十分に突き詰めることなく、実証科学の政治化とそれに即した行動をニヒリズムの克服と取り違えていた。それに対して、ハイデガーはまずもって実証科学の対象化とは異なる、事物の根源的な開示のあり方を思索し、その所在を明確にすることを要求する。 このような思索を遂行するとき、われわれは事物の根源的な開示のうちに立ち、すなわち事物の真の「存在」に晒されている。このとき思索こそが「存在」を成就させる行動となっている。戦後に書かれた「〈ヒューマニズム〉についての書簡」の冒頭段落における「思索はそれが思索することによって行動する」[6]というテーゼは、まさに今述べたような存在の思索と行動の関係を言い表している。 われわれは通常、思索と行動を区別する。そして思索はそれだけでは無力であり、思索を現実化する行動こそが世界の変化をもたらすことができると考えている。ハイデガーがかつて「一撃」や「作用」によって「変化」をもたらせると考えていたとき、彼自身もまだ何ほどかはこうした見方に囚われていた。その反省に基づいて、彼は「存在」の次元における変化はただ思索のみによってもたらされるという立場を明確にしていくのである。ハイデガーが後期の「存在の思索」において到達した「思索こそが行動である」という境地は、しばしば神秘主義的、秘教的などと評されてきた。しかしこうした立場も実は、彼が煮え湯を飲まされた学問の政治化に対する反省から生み出されたものであった。 [1] 浅田彰『構造と力――記号論を超えて』勁草書房、1983年。 [2] ロラン・バルト『現代社会の神話 ロラン・バルト著作集3』下澤和義訳、みすず書房、2005年。 [3] こうした「アイデンティティの政治」の隆盛の背景にあった事情については以下の説明がわかりやすい。谷口功一「多様性を疑う~〈近代〉を擁護するために」『中小企業と組合 2026年6月号』エヌエスエイサービス、10頁以下。 (URL: https://www.chuokai.or.jp/contents/publications/monthlymagazine/2606.pdf) [4] 中沢新一『チベットのモーツァルト』せりか書房、1984年。 [5] Martin Heidegger, Anmerkungen I-V (Schwarze Hefte1942-1948), Gesamtausgabe Bd. 97, Frankfurt am Main, S. 98. [6] Martin Heidegger, Wegmarken, Gesamtausgabe Bd. 9, Frankfurt am Main, S. 313. 轟 孝夫 経歴 1968年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
現在、防衛大学校人文社会科学群人間文化学科教授。
専門はハイデガー哲学、現象学、近代日本哲学。
著書に『存在と共同—ハイデガー哲学の構造と展開』(法政大学出版局、2007)、『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書、2017)、『ハイデガーの超‐政治—ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い』(明石書店、2020)、『ハイデガーの哲学—『存在と時間』から後期の思索まで』(講談社現代新書、2023)などがある。
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