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第24回 庄内式土器の起源は北部九州

 戦前に大阪府豊中市立庄内小学校の建設地から、弥生時代晩期と古墳時代創成期の両方の特徴を持つ土器が発見され、この遺跡は「庄内遺跡」と名付けられました(第19回の地図参照)。そして戦後になってから考古学者の田中琢(たなか みがく)氏が、国土復興によって各地から出土した土器と合わせて、庄内遺跡の土器を研究しました。庄内遺跡の土器の特徴は、少し尖(とが)った丸底をしていて、外側に叩(たた)き目の模様があり、内側を箆(へら)で削って1.5ミリほどに薄く仕上げています。これは、弥生時代晩期の底が平らで厚さが4~5ミリほどもある土器に比べて熱効率がとても優れていました。そして、弥生時代晩期に作られ始めて古墳時代創成期まで作られていた土器と分かり「庄内式土器」と名付けられました。また、近畿の古墳から出土する「布留(ふる)式土器」より前の時代に作られた土器と位置付けられました。すなわち、「弥生時代晩期の土器の一種としての庄内式土器」 → 「古墳時代創成期としての庄内式土器」→「布留式土器」の順です。
 庄内式土器は、奈良県の纒向遺跡周辺を含む天理市から桜井市にかけての上ツ道(かみつみち)と呼ばれる狭い地域から出土する「大和型」と、生駒山地の西側に当たる大阪府東大阪市と八尾市を中心に出土する「河内型」があります(第19回の地図参照)。大和型と河内型の違いはあまりありませんが、大和型は表面の叩き目模様が粗く、右下がり(\)の線刻があり、河内型は叩き目が細かく、右上がり(/)の線刻があります。
 そして大和型の庄内式土器が纒向遺跡周辺の次に多く出土する地域は、不思議なことに――後で不思議では無いことがわかりますが――「北部九州」なのです。主な遺跡だけでも、御床松原(みとこまつばら)遺跡(糸島市)や三雲遺跡(糸島市)、西新町(にしじんまち)遺跡(福岡市)、板付(いたつけ)遺跡(福岡市)、神蔵(かんのくら)古墳(朝倉市)の下層(古墳が造られる前に既に埋土した可能性があります)、吉野ヶ里遺跡(神埼市)などから大和型の庄内式土器が出土しています。一方の河内型は、量は少ないものの(豊中市の庄内遺跡を含む)西日本の広い地域や静岡県から出土しています。(豊中市の庄内遺跡を含む)近畿から出土する土器は八尾市周辺の土で焼かれていますが、北部九州の大和型と、近畿以外の西日本や静岡県の河内型とは、それぞれの地元の土で焼かれており、八尾市周辺の土で焼かれた土器が各地へと運ばれたのでは無いことが分かっています。

 「北部九州から出土する庄内式土器」は、後漢式鏡などの共伴物があるため、「3世紀の邪馬台国時代から作られ始めた土器である」と実年代が推定できます。一方、「近畿から出土する庄内式土器」は後漢式鏡も三角縁神獣鏡も出土せずに、その他の共伴物も出土しないために、実年代がまったく推定できません。
 同志社大学教授だった森浩一氏は『季刊邪馬台国』(梓書院)53号の「考古学と倭人伝」の中で、「九州の場合は、この遺跡からは中国のいつごろの鏡が出るとか、年代を修正する(引用者注:実年代を推定する)遺物があるんですが、近畿の場合はない。特に奈良県の弥生遺跡の場合は、中国の銭は出ない、貨泉(かせん)とか五銖銭(ごしゅせん)ですね。鏡も出ない。だから、奈良県の年代は、まだまだ〝そう間違いはありません(引用者注:推定した実年代に間違いはありません)〟というようなことは言えません」と書いています。なお、五銖銭は「前漢」の武帝が鋳造させた銅製貨幣で、貨泉は「新」の王莽(おうもう)が鋳造させた銅製貨幣であり、ともに庄内式土器の出土した北部九州からは多数出土しています。一方、森氏が指摘するように奈良県の弥生遺跡からは中国の「銭」も「鏡」も欠片(かけら)すら出土しないのです。これは、3世紀の奈良県では大陸との交流がまだ始まっていなかったことを示していると私は考えています。この頃の奈良県では三角縁神獣鏡もまだ作られておらず、大型銅鐸を威信財として作っていたのでしょう。
 このような状況の中で、邪馬台国纒向説の学者たちは「近畿から出土する庄内式土器」の実年代をどのように推定しているのでしょうか。それは「北部九州から出土する庄内式土器」の実年代から推定しているのです。しかもこれらの学者たちは大前提として「纒向は3世紀の邪馬台国である」と考えているために、「庄内式土器の発祥地は明らかに纒向であり、次第に北部九州を含む西日本や静岡県へと広まった」と考えているのです。さらに大和型を「纒向1式、纒向2式、纒向3式」と細分して纏向の名を冠しているのです。
 邪馬台国纒向説の第一人者である寺沢薫氏(桜井市纒向研究センター所長)は『卑弥呼とヤマト王権』(中公選書)の中で、「弥生時代から古墳時代には、中国製の青銅鏡や銭貨(せんか)などが北部九州を中心に大量にもたらされている。それらは型式を細かく分類することで、制作年代の幅を狭めることができる。そうした舶載品と一緒に出土したことが認められる土器を抽出してその様式を検討し、舶載品の各型式の流れと土器の様式変化とが矛盾なく暦年代の軸線上に並べられたとき、その暦年代に優位性が認められる。」と書いており、共伴物が北部九州を中心に大量にもたらされていることを認めています。
 邪馬台国纒向説の学者により、縄文時代から弥生時代を経て古墳時代に至る「土器の編年表」が作られています。この編年表に示されている土器の型式が変化する順番はほぼ妥当だと思われますが、土器の実年代の推定については疑問を持っています。庄内式土器に付着した炭化物の炭素14同位体法による年代測定を根拠にする説もありますが、この方法によるグラフの曲線には振れ幅や推定誤差が大きく、例えば3世紀にも4世紀にも解釈できてしまうので、自説に合う方が選ばれているように思います。

 庄内式土器に関する反論としてどのような説があるでしょうか。『季刊邪馬台国』(梓書院)第72号、第73号に庄内式土器の特集があり、フリージャーナリストの斎藤忠氏による「庄内式土器は北九州で生まれた」という論文が掲載されています。ここで言う北九州とは北九州市ではなく、北部九州のことです。また、季刊邪馬台国編集部による「庄内式土器北九州発生説」の論文も掲載されています。
 これらの論文によると、北部九州の庄内式土器は後漢式鏡などの共伴物から推定して、確実に卑弥呼の時代と認められる3世紀の遺跡から出土しています。一方、近畿の庄内式土器は古墳時代の始まる少し前の遺跡や、古墳時代の古墳から出土しています。つまり古墳時代の始まりを3世紀とするか4世紀とするかが鍵になります。季刊邪馬台国編集部の論文は、もちろん4世紀としています。この論文はとても綿密な論考なので、詳しくは掲載号を見ていただく必要がありますが、この連載では庄内式土器の九州発生説の根拠を一つだけ要約して紹介します。
 纒向にある箸墓古墳からJR桜井線をはさんで約200m東にホケノ山古墳があります。築造時期は、庄内式土器が出土するホケノ山が早く、布留式土器が出土する箸墓古墳が遅くなります。ホケノ山古墳からは庄内式土器のほかに画文帯神獣鏡(がもんたい しんじゅうきょう)が出土しています。この画文帯神獣鏡の鉛同位体比は三角縁神獣鏡と同じであり、3世紀以前に大陸からもたらされた後漢式鏡とはまったく異なります。画文帯神獣鏡は三角縁神獣鏡とともに4世紀の国産鏡であると私は考えています。このため、ホケノ山古墳は4世紀の古墳と考えるのが妥当であり、近畿の庄内式土器も4世紀の土器であると考えるのが自然です。これにより、ホケノ山古墳と箸墓古墳は共に、247~248年に亡くなった卑弥呼の墓ではないと思います。
 季刊邪馬台国編集部の論文の結論は、庄内式土器は北部九州で発祥し、北部九州では「230年代以前~320年頃」に作られ、近畿の庄内式土器は始まりも終わりも北部九州より数十年遅れて「290年~350年頃」に作られたと推定しています。庄内式土器の最盛期としては、北部九州ではほぼ3世紀であり、近畿ではほぼ4世紀前半と見ていいと思います。そして、近畿で大和型が出土する纒向遺跡を含む上ツ道(かみつみち)沿いも、河内型が出土する東大阪や八尾市も、邇芸速日命に帯同した物部氏の子孫や、伊波礼毘古に帯同または帰順した物部氏の子孫の居住地であることから、北部九州に発祥した庄内式土器の型式を、物部氏が近畿へと運んだと推定しています。

 庄内式土器が出土する奈良と大阪に鎮座する神社の祭神を私が調べてみたところ、共に物部氏の居住地であることが分かります。奈良の上ツ道沿いの天理市布留町には石上(いそのかみ)神宮が鎮座しており、主祭神は布都御魂大神(ふつのみたまの おおかみ)で物部氏の総氏神(そううじがみ)になっています。布都御魂大神とは、建御雷命(たけみかづちのかみ)が出雲に国譲りさせた時の剣の神霊の名前です。伊波礼毘古が奈良へ天降りするに際して、物部氏一族の天香語山命が伊波礼毘古に献上して帰順した時の剣です。なお、布留式土器や布留町の布留(ふる)は、布都(ふつ)と同源の名で、物部氏を象徴しています。
 また、桜井市の纒向遺跡の建物跡から西側50メートル「纒向遺跡のど真ん中!」には他田坐天照御魂神社(おさだにます あまてるみたま じんじゃ)が鎮座しています。神社の名から祭神は天照大御神あるいは卑弥呼と思っている人がとても多いのですが、「天照御魂」の別名は「天照国照彦火明命」であり「邇芸速日命」なのです。邇芸速日命の御子の宇麻志麻治命は物部氏の祖になっています。
 さらに桜井市金屋には志貴御縣坐神社(しきの みあがたにます じんじゃ)が鎮座しており、祭神はやはり邇芸速日命です。大和型が出土する上ツ道沿いの纒向周辺は、物部氏が開拓した居住地と見るのが妥当なのです。箸墓古墳が大和朝廷時代の倭迹迹日百襲姫の古墳であることは前回に指摘したとおりです。纒向周辺に天照大御神または卑弥呼の痕跡はどこにも見当たりません。
 一方、大阪方面も、八尾市には跡部(あとべ)神社が鎮座していて、祭神は邇芸速日命や阿刀大神(あとのおおかみ)で、阿刀物部の本拠地です。東大阪市には石切剣箭(いしきり つるぎや)神社があり祭神は邇芸速日命とその御子で物部氏の祖になった宇麻志麻治命です。また、大阪府交野(かたの)市には第18回に記したとおり磐舟(いわふね)神社が鎮座していて、大阪府河南町平石に磐船大(いわふねだい)神社が鎮座しており、主祭神はどちらも邇芸速日命です。河内型の庄内式土器が出土する生駒山地の西側地域も物部氏の居住地と見て良さそうです。

 「庄内式土器の発祥地は明らかに纒向である」としている学者たちは、「纒向遺跡からは、近畿、瀬戸内、山陰、北陸、東海、関東などの各地の土器が出土するため、纒向は広い地域から人々を集められる国力があった」としています。また、「纒向からは九州の土器が出土しないにもかかわらず、北部九州からは大和型の庄内式土器がたくさん出土することはとても不思議である」とも言っています。万々が一、このような説が正しいとしたら、「北部九州からは大和型の庄内式土器がたくさん出土するので、北部九州には纒向の人々を集められる国力があった」と考えても良さそうなものですが、決して北部九州に国力があったとは考えずに、ただただ不思議がっているのです。
 しかし、季刊邪馬台国編集部などの主張するとおり、庄内式土器は北部九州に発祥し、北部九州が本拠地である物部氏により、纏向や大阪へと型式が運ばれたと考えれば、不思議なことは一切なくなり、とても合理的で自然な歴史の流れが立ち現れるのです。すなわち、庄内式土器が北部九州からたくさん出土するのは発祥地だからです。また、纒向遺跡からは庄内式土器という名の北部九州の土器も出土していたのです。それを纒向発祥の土器と誤認することから、いろいろな辻褄の合わない不思議が立ち現れてくるのです。
 そして纒向の最も合理的な見方は、4世紀になってから物部氏が開拓した土地に、大和朝廷の初期天皇の都が築かれ、九州を含む広く日本各地の人々を集める国力を持った、運河も整備されて物流も盛んな、狗奴国などの敵国の存在しない平和都市だった、という姿です。庄内式土器は3世紀の邪馬台国時代の北部九州で発祥し、物部氏が運んだことにより4世紀の大和朝廷の土器にもなり、長い間使われたのです。だからこそ庄内式土器は初期の大和朝廷における物部氏の勢力範囲であった西日本各地や静岡県などでも出土しているのです。その後4世紀半ばになってから「布留式土器」が使われるようになり、奈良における古墳時代が本格的に始まることは後の回で説明します。

 以上のような見方をすれば、庄内式土器が最初に発見された大阪府豊中市の庄内遺跡は発祥の地でもなく、土器が焼かれた地でもなく、出土数が一番多い地でもなく、名が体を表していません。このような例は考古学にはたくさんあります。代表的な例は「弥生式土器」や「弥生時代」です。この名は1884年(明治17年)に東京帝国大学の構内の向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)から、縄文式土器とはまったく異なる装飾の少ない、米の煮炊きに適した薄手の土器が初めて発見されたために付けられた名前です。その後の研究で、弥生時代が始まるころの最初の水田(稲作)遺跡は、佐賀県唐津市の菜畑(なばたけ)遺跡や、福岡市の板付(いたづけ)遺跡などであることがわかってきました。しかし、今さら弥生時代を菜畑時代に改称したり、庄内式土器を吉野ヶ里式土器に改称したら混乱するので、残念ながらこのままでいくしかありません(涙)。
 ちなみに、向ヶ岡弥生町は旧暦3月の弥生が由来ですが、3月をなぜ弥生(やよひ)と言うのかというと、「弥(いや)生ひ(おい)」であり、いよいよ草木が芽吹き益々生い茂る春を表しています。このため、弥生時代は日本の曙であるという意味と通底し、思いがけず良い名になっています。また、1931年(昭和6年)に遠賀川(おんががわ)のほとりの立屋敷遺跡(たてやしきいせき:福岡県水巻町)から、弥生時代が始まる紀元前300年~紀元前100年頃の土器がたくさん出土しました。その後、同じ型式の土器が、九州各地や中国(地方)、近畿、三重、愛知など西日本各地からも出土したため、一括して「遠賀川式土器」と名付けられました。現在、遠賀川式土器は、北部九州から西日本各地へと稲作が広まっていった様子を示す、考古学的に重要な指標の土器となっています。弥生式土器のはじまりが特別に遠賀川式土器と命名されていることで私は満足することにします。結局、「弥生時代の鍵」は、最初も(稲作の開始と伝播)、途中も(伊都国、奴国、邪馬台国の時代)、最後も(大和朝廷の誕生)、すべて北部九州が鍵を握っているのです。これは日本の源流が大陸に近い北部九州にあったことによる当たり前の話だと思います。
 なお、2026年の夏の甲子園に出場した福岡県立東筑高校(北九州市)は立屋敷遺跡の2kmほど東にあります。同校校歌は折口信夫(おりぐち しのぶ)の作詞で、1~3番を端折って紹介すると、「遠賀(おか)の水門(みなと)も望むべし・・・ここに日本(にっぽん)始まれる、筑紫(つくし)に吾等生まれ合ひ、ああ言い知らぬ誇らしさ・・・良きかな東筑」とあります。「ここに日本始まれる」と歌った折口信夫は遠賀川式土器でたどれる稲作の東進や、神武天皇が奈良東征の途中で立ち寄った岡湊(おかのみなと:岡水門)を意識して校歌に詠み込んだのかも知れません。

 そして私は、「遠賀川」には邪馬台国問題を解く重要な鍵が隠されていると思っています。道路が整備されていなかった古代においては、自然の大河は大量の物流を支える現代の高速道路の役割を担っていたからです。特に遠賀川は日本の大河としては珍しいほどの勾配が緩やかな大河であり、河口から中間市までの下流部は1/2500(2.5kmで1mの高低差)と「非常に緩やか」で、中間市から飯塚市の中流部でも1/1500と「かなり緩やかな」大河なのです。つまり、遠賀川は舟でさかのぼり易い大河であり、下流部では櫂(かい)だけでさかのぼれたのではないでしょうか。櫂でさかのぼれなくなった場合に古代から近世まで取られた方法は、船首に長い綱を結わえて右岸と左岸から綱を人夫(後には牛馬など)が引く「曳(ひ)き舟」でした。遠賀川では近世においても鉄道が開通するまでは、「ひらた舟」と呼ばれる舟で石炭や米などが河口まで運ばれ、川をさかのぼる際には曳き舟されることもありました。そして現代の道路マップで確認すると分かりますが、遠賀川の両岸には道路が並行しており、河口部から上流部の嘉麻市までほぼ途切れることなく続いているのです。この両岸の道路は、曳き舟のために作られた古代からの路を踏襲して拡張整備されたのだと思います。さすがに源流点に近づけば急勾配となり舟を降りなくてはいけませんが、徒歩で分水嶺を越えれば次の河川に出られました。
 遠賀川水系と筑後川水系の分水嶺になっているのが、古処山(こしょさん)、屏山(へいざん)、馬見山(うまみやま)の山並みです。そして、馬見山の東が遠賀川の源流点に当たります。私はこの源流点にレンタカーと徒歩で訪れたことがありますが、小さな滝と湧水の小川が見られます。そこから朝倉市へ向かうと、筑後川の支流である安川(小石原川)の上流部に通じています。そこに待機させた舟に乗り換えて安川を下ると、私が邪馬台国の都と推定している、朝倉市の平塚川添遺跡や、一ツ木(ひとつぎ)・小田(おた)台地にたどりつきます。なお、高天原には「天の安河(あまのやすかわ)」が流れていたと『古事記』にも『日本書紀』にも記されています。
 第8回に書きましたが、朝倉市の大己貴(おおなむち)神社は「大神様(おんがさま)」とも呼ばれていて、「おんが川」は「大神川」のことなのではないかと思っています。また、馬見山の名は、山の北側にある福岡県嘉麻市馬見を本拠地とした馬見物部氏に由来しています。一方、奈良県北葛城郡にも馬見丘陵という地名があり、5世紀を中心とした250基余りの馬見古墳群が点在しています。もちろん馬見丘陵は物部氏によって嘉麻市の馬見の地名が運ばれたのだと思います。
 帯方郡の張政は、遠賀川をさかのぼり、安川を下るこのコースで邪馬台国の都へと訪れたのではないかと私は考えています。対馬、壱岐から末盧国へ上陸して、伊都国、奴国、不弥国を通り、投馬国(投与国、台与国、豊国)を流れる遠賀川を南下するこのコースをたどるのが邪馬台国の版図のすべてを巡検するためのベストコースだと私は思っています。遠賀川は邪馬台国と投馬国を結び、立屋敷遺跡、岡湊(遠賀の水門)まで通じる政治、文化、技術、物資、人々を運ぶ大動脈だったと思います。


高橋 永寿(たかはし えいじゅ)

1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。

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