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第22回 記紀を皇国史観で読まない

 この連載は、魏志倭人伝と記紀との間におおよその双対性(そうついせい)があること(第11回)を活用して、邪馬台国から大和朝廷への歴史の流れを読み解いてきました。しかし、これ程までに記紀を高く評価する著者(私)は、皇国史観(こうこくしかん)を復活させようとする軍国主義者ではないか、と疑う方がいるかも知れません。しかし、私には皇国史観や軍国主義を復活させようとする意図はまったくありません。それではどのような立ち位置でこの連載を書いているのかをここで明らかにしておきます。

 まず、私は元・国家公務員なので、「国民全体の奉仕者として……日本国憲法を遵守(じゅんしゅ)し、……不偏不党かつ公正に職務の遂行に当たる……」という宣誓をして入庁しました(宣誓書はもう少し長く続きます)。そして、日本国憲法の国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の3原則は、国民としての私を守ってくれる理念です。それなのに、なぜ今ごろ神武東征などの話題を蒸し返すのかといえば、私の古里である日本のはじめての姿を知りたいと思った時に、記紀を排除したら「謎の3世紀、謎の4世紀」になってしまうからです。記紀が皇国史観で読まれるようになったのは近世になってからだと聞いていたので、そもそも記紀の編纂者はどのような理念を持っていたのかも知りたくなりました。

 私の理解している皇国史観とは、「大日本帝国は神武天皇からの万世一系(ばんせい いっけい)でつながる天皇が統治する神の国であり、臣民は命をかけて忠孝の誠を奉げなくてはならない」という思想です。皇国史観は、14世紀の北畠親房(きたばたけ ちかふさ)の『神皇正統記(じんのう しょうとうき)』あたりに起源を持ち、幕末の尊王攘夷運動で盛んになり、明治維新後は、全国の神社を序列化した国家神道(こっかしんとう)が強制され、天皇は人の姿をした神である現人神(あらひとがみ)とされました。また明治天皇から発せられた「教育勅語(きょういくちょくご)」には「親孝行をし、夫婦や兄弟は仲良くせよと説かれ、国難に際しては武勇をもって皇室の繁栄に尽くすこと」という趣旨が謳われています。日本国憲法がある現代の価値観からすれば、天皇から親孝行や夫婦仲まで説教される筋合いは無く、ましてや国難に際しては命を捧げよと読める教育勅語の「すべて」が受け入れられません。

 皇国史観は、記紀のうちの主に日本書紀の記事の解釈に依っています。まず、日本書紀の本文ではなく一書(あるふみ)だけに記された次の記事があります。天照大御神は高千穂へ天孫降臨(てんそんこうりん)する邇邇芸命に対して、「葦原(あしはら)の瑞穂の国は我が子孫が治める国であり、皇孫の栄えることは天壌(あめつち)窮(きわま)り無い」と言いました。このことは後世に「天壌無窮(てんじょう むきゅう)の神勅(しんちょく)」と称されました。「日本は天照大御神の子孫が治める国で、皇孫の繁栄は永遠である」という意味です。

 また、日本書紀の神武天皇紀には、「六合(りくごう:天地と東西南北を合わせた天下)を兼ねて都を開き、八紘(はっこう:四方八方の果てまでの天下)を掩(おお)いて宇(う:家)と為(な)さん」と記されています。この記事から「八紘一宇(はっこう いちう)」という四字熟語が作られ、第二次世界大戦の時に軍部は「植民地になっているアジア諸国を開放し、大日本帝国による大東亜共栄圏を構築しよう」という意味を持たせました。

 また同じく日本書紀の神武天皇紀には、「神風の伊勢の海の大石にや……」の和歌があります。そして、13世紀末の鎌倉時代に元寇が北部九州に来襲した際に、大風が吹いて元軍を追い払ったことにより、我が国の国難に際しては「神風が吹く」という思想が生まれました。この話を軍部が利用して、若者を招集して神風特攻隊を組織し自爆飛行機を敵艦に突入させました。なお、博多湾岸には二度目の来襲に備えた元寇防塁(げんこうぼうるい)と呼ばれる防御用の長大な石垣が保存されていて、以前に私も来福した友人の高校教師と見に行きました。

 このような記紀に由来する皇国史観が浸透するなかで第二次世界大戦を戦い、日本人の死者は民間人80万人を含む310万人にもなり、さらにアジア諸国やアメリカにも多大な犠牲者を出した上で、神風は吹かずに日本は惨敗しました。

 このように、記紀の記述が皇国史観と結びつけられ、戦争を支える思想として利用されたことへの反省から、戦後になると記紀に対する見方は大きく変わりました。戦前のように記紀の記述をそのまま歴史的事実として受け入れるのではなく、編纂された時代の政治的背景や、大和朝廷の正統性を示すという編纂目的などを考慮しながら、批判的に読み解く研究が進められるようになりました。これは、記紀を国家の権威づけに利用した戦前・戦中への反省からすれば、当然の変化だったと思います。

 一方で、その反動として、記紀に記された神話や説話の中に歴史的事実の反映を見いだそうとする研究や議論に対して、慎重な見方が強まった時期があったことも確かでしょう。記紀の記事を古代史の史料としてどこまで利用できるのかについては、戦後もさまざまな研究が積み重ねられてきましたが、とりわけ神武東征や初期天皇に関する説話を実際の歴史と結びつけて論じることには、戦前の皇国史観を想起させるという難しさが伴ってきました。

 こうした状況の中で、「邪馬台国から東征した勢力が大和朝廷の成立につながった」といった説を唱えた研究者が、「神武東征神話の亡霊」などと批判されたこともありました。その背景には、神武東征を歴史的事実として扱うことが、戦前の皇国史観の復活につながるのではないかという警戒感があったのだと思います。敗戦の悲惨さと、戦前・戦中に記紀がどのように利用されたかを考えれば、そのような警戒が生まれたこと自体は理解できます。

 しかし、皇国史観を否定することと、記紀を古代史の史料として検討することとは、本来別の問題ではないでしょうか。記紀の記事を無条件に史実とみなす必要がないのと同じように、皇国史観に利用されたという理由だけで、その中に歴史的事実を反映した伝承が含まれている可能性まで否定する必要もないと私は考えています。私がこの連載で試みているのは、記紀を神聖視することでも否定することでもなく、魏志倭人伝や考古学的資料などと照らし合わせながら、そこに古代日本の歴史がどの程度反映されているのかを考えることです。

 私の連載を読んだ方の中にも、神武東征を取り上げること自体に違和感を覚え、「神武東征神話の亡霊」のように感じた方がいるかも知れません。だからこそ、私は皇国史観とは明確に距離を置いた上で、記紀を古代史の史料の一つとして改めて読んでみようと思ったのです。

 そうしてみると、各地の遺跡や出土物、地名や神社の祭神などから見て、私には卑弥呼や台与の振る舞いが天照大御神の振る舞いと酷似しているように思えたのです。そして、神武東征の説話は、邪馬台国のあった九州から技術や文化が近畿や東海へと広がり、奈良を都として大和朝廷が誕生したという話に思えたのです。ただし、神である天皇が大和朝廷を建国したのではなく、人である伊波礼毘古が天下統一して奈良を都にしたと思えたのです。これは、徳川家康が天下統一して江戸を都にしたのと同様に思えたのです。そして、この連載でお伝えしてきたとおり、記紀には戦争を鼓舞するような部分はほとんど見られずに、むしろ政略結婚を通して戦うこと無く領土を広げたり、情勢判断を通して戦うこと無く大同団結するなどの記事が多く見られるのです。

 日本書紀の「天壌無窮の神勅」は権力者の当たり前の願望だと思います。世界中のどんな権力者でも「私の後継者は誰でも良い」などとは言わずに「我が子孫(や勢力)が永遠に続くように」と願うものでしょう。軍部の造語である「八紘一宇」にしても、日本書紀を私が直訳すれば「天下を束ねて都を開き、天下を包んで家にしよう」、意訳すれば「倭人の都を造り、一つにまとめよう」という意味だと思います。四字熟語で表すならば神武天皇による「天下統一」が相応しく、後世の戦国武将による「天下統一」とほとんど同じ意味だと思います。後者が拒絶されずに人々に受け入れられているのに比べて、前者だけがタブー視されるのは軍部のせいです。日本書紀の「神風」にしても、「神聖な風」という意味の「伊勢」に付く枕詞(まくらことば)に過ぎず、国難に際して神風が吹くという思想は後世の勝手な解釈なのです。

 記紀を皇国史観で読むことを強制してきたのは、明治政府以降の政府や軍部だったのであり、記紀の編纂者は「皇国史観」なんて用語すら知らなかったのです。記紀を皇国史観で読むことは、権力者に自由を奪われ、戦争を引き起こすほどの危険があると日本人は認識しました。だから私も、記紀を皇国史観で読まないことを肝に銘じています。合わせて、皇国史観を復活させようとする動向にも警戒しています。

 記紀は軍国主義の指南書でも天皇崇拝の書でもなく、我が国が広域国家に成長していく過程を伝える伝承を含んだ歴史書であり、古代史を考えるための重要な史料の一つだと私は思います。もちろん、記紀に記された出来事をそのまま史実とみなすわけではありません。天照大御神や神武天皇についても、神としてではなく、その説話の背景に歴史上の人物や出来事が存在した可能性を考えながら読み解いています。そのように考えるならば、記紀そのものに戦前・戦中の軍国主義の責任を負わせるのではなく、後世にそれがどのように解釈され、利用されたのかを分けて考える必要があると思います。

 特に日本書紀には誇張された(今の言葉で言えば「盛った」)部分が多いので注意が必要です。例えば、紀元前660年に始まったとされる日本書紀の皇紀は、編纂者が考案した「お飾り」ではないかと私は考えています。100歳以上の天皇が続出するところから見ても、その年代をそのまま史実として受け取ることは困難です。むしろ暦がまったく記されていない古事記の方が、本来の伝承の姿を残しているのかも知れません。日本書紀は諸外国を意識して編纂され、古事記は天皇家に伝わる伝承をまとめたものとも考えられているので、そこに編纂目的の違いが現れている可能性もあります。

 邪馬台国の卑弥呼はとても人気があり、我が古里こそ邪馬台国だという誘致合戦が行われていますが、大和朝廷の誕生や神武天皇の話題になると、記紀や皇国史観には関わりたくないという意識が働くためか盛り上がりません。しかし、大和朝廷の政治体制は邪馬台国の政治体制を引き継いでおり、神である「天皇絶対王政」では無く、人間である天皇を共立して物部氏をはじめとする豪族が支える「天皇豪族体制」だったと思います。邪馬台国の卑弥呼の政治体制を問題視しない一方で、大和朝廷の天皇の政治体制だけを問題視するのは二重基準です。そもそも、現代の民主主義の価値観で古代の政治体制の良し悪しを評価できないのです。なお、「大和朝廷」や「天皇」という用語自体は古代まではさかのぼれません。しかし、そのように称しても問題のない「実体」はあったと思うので、今後も分かりやすいこの用語を使います。

 神社や祭神、神道を持ち出すと、国家神道を連想する人がいるかも知れません。しかし、今でも神社は全国に8万社余りもあり、鎮守の森は初詣、節分、様々な祈願、お宮参り、七五三、厄除け、お祭などでにぎわっています。私がここで考えている神社の姿は、国家神道として制度化されたものではなく、アニミズム的な自然崇拝や祖霊崇拝につながる神社や神道です。

 私は、倭人が弥生時代から、あるいはそれ以前から、アニミズム的な生命観、自然観を持っていたのではないかと考えています。また、この連載で述べてきた仮説に基づけば、神社の祭神の中には、過去に実在した人物の記憶が神格化されて伝えられた例が少なからずあるのではないかとも考えています。伊勢神宮の天照大御神についても、私は卑弥呼や台与に関する歴史的記憶がその背景にあるのではないか、という仮説を立てています。もちろん、これは一般に確定した歴史的事実ではなく、この連載を通して検討してきた私自身の見方です。実在の人物が後世に神として祀られた例としては、徳川家康が東照大権現として日光東照宮などに祀られていることが挙げられます。

 前回に書いたとおり、日本書紀には「セントエルモの火」や「ブロッケン現象」を思わせる、当時の人々には理解することが難しかったと思われる現象も記されています。私は、このような不可解な記述が含まれているからといって、記紀全体の史料的価値まで否定する必要はないと考えています。むしろ、後世の人には不可解に見える伝承まで残されていること自体、記紀がどのような伝承を素材として編纂されたのかを考える手掛かりになるのではないでしょうか。

 もちろん、記紀の記事をどこまで歴史研究の史料として利用できるかについては、研究者の間にもさまざまな見解があります。邪馬台国纒向説と、私がこの連載で検討している邪馬台国九州説・東征説との違いも、そうした史料評価の違いと深く関係しています。重要なのは、特定の説を支持するために記紀を肯定したり否定したりするのではなく、考古学的資料や中国史書などと照合しながら、記紀の記事のどこまでが歴史的事実を反映しているのかを一つひとつ検討することだと思います。

 邪馬台国九州説と東征説には、「神武東征」という言葉から皇国史観を連想されやすいという難しさがあります。一方で、邪馬台国纒向説は現在広く知られ、マスコミでも有力説として紹介されることが多くなっています。しかし、説の妥当性は、そのような社会的な受け止められ方とは別に、史料と考古学的事実をどこまで整合的に説明できるかによって検討されるべきでしょう。

 私は、東征説には、魏志倭人伝と記紀を相互に参照することによって、2世紀から3世紀を経て4世紀までの古代日本の姿を連続的に説明できる可能性があると考えています。一方、邪馬台国纒向説については、卑弥呼や台与の時代と、その後の大和王権との関係をどのように説明するのか、なお検討すべき問題が残されているように思います。だからこそ、記紀を最初から史実とも作り話とも決めつけず、古代史の謎を解くための史料の一つとして、改めて検討する価値があるのではないでしょうか。

 2013年に亡くなった同志社大学の教授だった森浩一氏は、『倭人伝を読み直す』(ちくま新書)の中で、「考古学的に見て三世紀後半から四世紀前半と推定される宮殿のものと推測できる建物遺構が纒向の地で発掘されたとなると、第一に学者の頭に浮かぶはずのことは記紀ともに記している崇神・垂仁・景行の三天皇の宮に関係しているのではないかということであろう。もしそのことが頭に浮かばなかったのであれば、日本の歴史書を無視または軽視しているというほかない。太平洋戦争が終わったあと、日本の神話を否定しそればかりか記紀を読むことも非科学的とする風潮が学会を覆いつくし、かなりの期間それが続いた。青年時代のぼくはその風潮には根拠がないとおもって、黙々と文庫本の記紀を読んだ。」と述べています。

 記紀などの古文献によれば纒向には、第十代崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきの みずがきのみや)と、第十一代垂仁天皇の纒向珠城宮(まきむくの たまきのみや)、第十二代景行天皇の纒向日代宮(まきむくの ひしろのみや)の宮殿が築かれたと明記されているのです。

 万々が一の話ですが、纒向遺跡が3世紀の卑弥呼の宮殿であるとすれば、記紀に記された4世紀の崇神、垂仁、景行天皇の宮殿との関係をどのように考えればよいのでしょうか。一般的に新しい遺構は古い遺構より上層に位置することを考えれば、この点についても検討する必要があるように思います。私は、纒向遺跡を卑弥呼の宮殿とみなす説だけでなく、初期天皇の宮殿との関係を考える説についても、同じように検討されて良いのではないかと考えています。

 マスコミでは「卑弥呼の宮殿とも言われる纒向遺跡」という表現をしばしば目にします。しかし、纒向遺跡を初期天皇の宮殿址との関係から捉える見方もあることは、一般にはあまり紹介されていないように思います。主流となっている説だけでなく、異なる説とそれぞれの根拠についても紹介されれば、読者はより多角的に纒向遺跡について考えることができるでしょう。

 2025年4月22日には「纒向遺跡から卑弥呼も目にし、撫でたかも知れない犬の骨が出土した」と多くのマスコミが報じました。しかし、この報道から確実に言えることは、纒向遺跡から犬の骨が出土したということです。それを卑弥呼と結びつけるのは、纒向遺跡を邪馬台国とみる立場に基づく解釈です。その後、奈良県桜井市は復元した犬の模型の愛称を募集し、卑弥「呼・纒」向から「こまき」と名付けました。

 私は、こうした報道を見るたびに、一つの有力な学説と、発掘によって確認された事実とが、一般の読者にどこまで明確に区別されて伝えられているのかが気になります。学説を分かりやすく紹介することはマスコミの重要な役割ですが、同時に異なる見解や未解決の問題についても伝えることが、古代史をより豊かに考えることにつながるのではないでしょうか。

 思い返せば、旧石器の捏造を暴いたのは毎日新聞記者による調査報道でした。旧石器捏造事件が発覚すると、「日本の旧石器時代は70万年前から始まった」と書き換えられていた教科書は、従来の年代認識へと改められました。毎日新聞社は、この報道により2001年に新聞協会賞と菊池寛賞を受賞しました。

 マスコミへの私からの要望は、先入観をできるだけ排し、多方面への取材を通して、纒向遺跡について現在何が分かり、何がまだ分かっていないのかを伝えていただくことです。主流説だけでなく異論にも目を向け、その根拠を比較検討する報道が行われれば、纒向遺跡だけでなく、日本古代史そのものについての理解もさらに深まっていくのではないかと思います。


高橋 永寿(たかはし えいじゅ)

1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。

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