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第21回 大和朝廷の誕生

 槁根津日子(さおねつひこ)が、速吸門(はやすいのと)において伊波礼毘古に帰順したことにより、大阪へ(さらにその先の奈良へ)と進軍する見通しが立ち、いよいよ陸上戦に移りました。

【 伊波礼毘古は浪速(なみはや)を経て、白肩津(しらかたのつ)の日下(くさか)に着いた(以下、前々回の地図参照)。日下から生駒山を越えて奈良へ入ろうとしたが、登美長髄彦(とみの ながすねひこ:以下、長髄彦と略す)が待ち構えていて攻撃してきた。伊波礼毘古の兄の五瀬命(いつせのみこと)は、長髄彦の矢を受けて負傷してしまった。そして、五瀬命は「日の神の御子である伊波礼毘古が日に向って戦ったのは間違いだった、これからは遠回りをして日を背に負って敵を撃とう」と言った。そこで作戦を見直し、紀伊半島の南へ迂回して熊野から奈良へ入ることにした。五瀬命の傷が悪化したので、途中にある茅渟(ちぬ)港に立ち寄って手当てを受けたものの亡くなってしまった。

 伊波礼毘古は熊野に着いたが、大熊が現われてその毒気に当たって進軍できなくなった。この時、高倉下(たかくらじ)が現われ、伊波礼毘古へ太刀を献上した。高倉下が言うには「夢に高木神(記)と天照大御神(記及び紀)が現われ、建御雷命(たけみかづちのみこと)が出雲を平定した時の十拳剣(とつかのつるぎ)を伊波礼毘古に献上せよ、と命じられたのでそのお告げに従った」とのことである。そして、伊波礼毘古は高倉下から献上された十拳剣の霊力により進軍を再開できた。突然現れた高倉下とは、伊波礼毘古が戦っている邇芸速日命(にぎはやひのみこと)の御子である天香語山命の別名である。

 また、伊波礼毘古の夢にも高木神(記)または天照大御神(紀)が現われ、「八咫烏(やたのからす)が熊野道を先導する」とのお告げがあった。そのお告げどおりに八咫烏が現われて、先導してくれたお陰で進軍することができた。なお、八咫烏は邇芸速日命の配下である物部一族の賀茂建角身命(かもの たけつのみのみこと)の別名である。

 さらに、伊波礼毘古は「敵地にある天香山(あまのかぐやま)の土を採取して「かわらけ」を作り祀れば勝利する」という夢を見た。そこで瀬戸内海で帰順した槁根津日子に、天香山に潜入して土を採取するよう命じた。槁根津日子は敵地へ潜入し、天香山から採取してきた土で「かわらけ」を作り勝利を祈願した。

 さらに進んで兄磯城(えしき)と弟磯城(おとしき)を攻めようとした。弟磯城は伊波礼毘古の説得に応じて帰順したが、兄磯城は戦いを選んだ。伊波礼毘古は帰順した弟磯城に兄磯城の説得に当たらせたが、兄磯城は説得に応じずに伊波礼毘古と戦った末に敗れた。

 宇陀を越えて伊波礼毘古がさらに進軍すると、急に辺りが暗くなり、氷雨(ひさめ=雹:ひょう)が降った。すると金色の鵄(とび)が伊波礼毘古の弓弭(ゆはず:弓の先端)に止まった。鵄は稲光のように輝いていたため、長髄彦は恐れを為し眼が眩(くら)んで戦うことができなくなった。

 伊波礼毘古の所へ長髄彦の使者がやって来て次のように言った。「天津神の邇芸速日命が天磐船に乗ってこの地にやってきた。邇芸速日命は長髄彦の妹の登美夜毘売(とみやひめ:先代旧事本紀では三炊屋媛:みかしきやひめ)を妻として可美真手命(うましまでのみこと:宇摩志麻治命)を産んだ。長髄彦は天津神である邇芸速日命の臣下となり従っているのに、新たな天津神である伊波礼毘古が現われて国を奪おうとしている。天津神に二種類あるのだろうか」。伊波礼毘古命は「天津神であるならば証拠の品があるはずだ」と言うと、邇芸速日命の所持する天羽羽矢(あまのははや)と歩靫(かちゆき:矢の入れ物)を見せた。すると、証拠の品は本物であり邇芸速日命は天津神であることが分かった。一方、邇芸速日命は長髄彦を説得して、伊波礼毘古命に帰順しようとしたが、長髄彦は断固として戦うことを選んだ。そこで邇芸速日命は説得をあきらめて長髄彦を殺し、伊波礼毘子に帰順した。

 奈良を平定した伊波礼毘古は、畝傍(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)を築き都とし、皇紀元年1月1日に初代天皇に即位し大和朝廷を開いた。伊波礼毘古は、(大物主命と勢夜陀多良比売との娘である)比売多多良伊須気余理比売(ひめたたら いすけよりひめ)と結婚して神沼河耳命(かみ ぬなかわ みみのみこと:後の第二代綏靖(すいぜい)天皇)が産まれた。伊波礼毘古が亡くなると畝傍山の東北の陵(みささぎ)に葬った。 】

 伊波礼毘古は、槁根津日子の先導により浪速(なみはや)を経て、白肩津(しらかたのつ)に着きました。浪速は現在の難波(なにわ)であり、白肩津は生駒山の西のふもとの東大阪市日下(くさか)付近にありました。現在、大阪城やその南隣りに位置する難波宮跡は、伊波礼毘古が東征した280年頃には上町(うえまち)台地の先端に当たっていました。そして、上町台地の西には大阪湾が、東には古代湖(河内湖)が広がっていました。このため、伊波礼毘古は河内湖を船で日下まで進むことができました。日下を「くさか」と読む理由は第8回に説明したとおり「日下の草処(ひのもとの くさか)」からです。そしてこの地名は福岡市中央区の「草香江(くさかえ)」から運ばれた地名でしょう。運んだ人物は、伊波礼毘古より先に高天原から奈良へ天降りした邇芸速日命でしょう。

 さて、伊波礼毘古は、日下に上陸して生駒山を越えて奈良へ入ろうとしましたが、長髄彦が待ち構えていて猛攻撃を仕掛けてきました。高地性集落の連絡網が機能していたのでしょう。しかも、日下の地は生駒山を越えた東側が登美(とみ)の長髄彦の本拠地である鳥見(登美:とみ)の集落であったため、長髄彦の守りが最も堅い場所から奈良へ踏み込んでしまったのです。このため、伊波礼毘古は苦戦を強いられ、兄の五瀬命は長髄彦の矢を受けて負傷してしまいました。五瀬命は「日の神の御子が太陽の方向に進軍したのは間違いだった」と言いましたが、まさに日下は生駒山からの日の出を臨む地であり、長髄彦にとっても日下(くさか、ひのもと)であり、日本(ひのもと)と言われる死守すべき聖地だったのです。

 剣豪の宮本武蔵が、1640年代に熊本にある雲巌禅寺(うんがんぜんじ)で執筆した兵法書『五輪書(ごりんのしょ)』の「火之巻」には、「場の次第といふこと。場の位を見分くる所、場において日を負うといふ事有り、日を後ろに成して構ふる也」とあります。つまり、「闘う場の良し悪しを見分けることが大切で、太陽を背にして構えるのが良い」と説いています。太陽を背にして闘えば、敵は太陽が眩しくて前が良く見えず、味方は敵をはっきりと見られるという兵法の極意です。伊波礼毘子が日の御子であろうがなかろうが、太陽に向って戦ったのは無謀だったのです。同じ理由で、紀ノ川をさかのぼって奈良へ向かうことも無謀でできませんでした。そこで伊波礼毘子は遠回りして紀伊半島の南端に近い新宮市の熊野川沿いから奈良へ入ることにしたのです。伊波礼毘古の臣下に宮本武蔵のような兵法家がいたら、五瀬命は負傷しないで済んだかも知れません。

 熊野へ向かう途中で五瀬命の傷は悪化してしまい、茅渟(ちぬ)港に立寄ることにしました。この茅渟港は第16回に書いたとおり、現在の泉佐野市や泉南市周辺の港で大阪府の南端に位置します。大国主命が妻とした活玉依媛(いくたまよりひめ)の出身地です。大国主命からの国譲りを受けて、高天原の飛び地の領土になっていたために立ち寄ることができたのです。しかし、傷が癒えることなく五瀬命はこの地で亡くなりました。茅渟港の南に位置する和歌山市には竈山神社(かまやまじんじゃ)が鎮座し、本殿の背後に五瀬命の墓である竈山墓(かまやまのはか)があります。裾に小石を貼った小さな円墳です。

 熊野に入ってすぐに伊波礼毘古は大熊の毒気に当たって進軍できなくなりました。この時、高倉下(たかくらじ)が現われ、建御雷命(たけみかづちのみこと)が出雲を平定した時の十拳剣(とつかのつるぎ)を伊波礼毘古に献上したため、進軍が再開できました。また、八咫烏(やたのからす)が熊野道を道案内することにより進軍ができました。八咫烏という名前は「大きな太陽」を意味しています。第10回に書いたとおり、古代中国では太陽には金烏(きんう)という三本足のカラスが住んでいるという伝承があり、太陽黒点の形が三本足のカラスに見えたのではないかと言われています。また、第14回に書いたとおり、八咫鏡は天照大御神の象徴で「日像鏡(ひかたのかがみ)」でもあるので、八咫烏は天照大御神を象徴する八咫鏡とも関係しています。ちなみに日本サッカー協会のシンボルマークも八咫烏にちなむ三本足の烏で、三本足で効率良くゴールに導いてくれますようにとの願いが込められているそうです。

 ここで重要なことは、高倉下が現われたのも八咫烏が現われたのも、夢とは言え、高木神と天照大御神の導きだということです。そもそも伊波礼毘古による奈良への天降りは「高天原三征」の総仕上げであり、高木神とその娘の二代目天照大御神(台与)の方針により開始された大作戦です。この大作戦の最終盤に、十拳剣や八咫鏡(日像鏡)などが登場することも私の考える「高天原三征」という枠組みから見れば、一連の流れとして理解できます。

 そして、伊波礼毘古の進軍を助けるのが後の物部氏一族であることも重要です。高倉下は邇芸速日命の御子で一緒に天降りした天香語山命の別名です。また、八咫烏は賀茂建角身命(かもの たけつのみのみこと)という別名を持ち、阿遅鉏高日子根神と同族の加茂氏です。

 次に、伊波礼毘古は「天香山(あまのかぐやま)の土を採取して「かわらけ」を作り祀れば勝利する」という夢を見ました。そこで瀬戸内海で帰順した槁根津日子に敵地にある天香山に潜入させて土を採取して来させて「かわらけ」を作り祀ることができました。伊波礼毘古が奈良に天降る前に「天香山」が奈良盆地に既にあったということは、先に天降った邇芸速日命(またはその御子の「天香語山命」)が、福岡県朝倉市にある香山の名を運んでいたためでしょう。

 そして、宇陀を越えて進軍すると兄磯城と弟磯城がいましたが、弟磯城は伊波礼毘古に帰順し、兄磯城は戦って死にました。この「磯城」は現在の奈良県桜井市辺りの豪族で、帰順した弟磯城は後に磯城県主(しきの あがたぬし)になりますが、この磯城県主も物部氏一族です。

 さらに伊波礼毘古が進軍すると、急に辺りが暗くなって雹(ひょう)が降り、金色のトビが伊波礼毘古の弓の先端に止まったと日本書紀にあります。トビは稲光のように金色に輝いて見えたため、長髄彦は恐れを感じ眼が眩(くら)んで戦うことができなくなりました。このように日本書紀には、伊波礼毘古は金色のトビに祝福された高貴な神で、長髄彦は臆病者であるように記されています。このトビ(鵄)の説話から、明治時代から大きな武功を挙げた軍人に金鵄勲章(きんし くんしょう)が授与されました。このため戦後になると、金鵄の説話は、戦前・戦中に軍国主義と結びつけて利用されたことへの警戒から、歴史的事実を反映した伝承として積極的に評価することが難しくなりました。また、「神武天皇を神格化するために作られた説話ではないか」と見る立場もあります。

 しかし実はトビの説話は「セントエルモの火」という自然現象であろうと、『謎だらけ・雷の科学』(講談社ブルーバックス)で電気に関する工学博士の速水敏幸(はやみとしゆき)氏が指摘しています。セントエルモの火とは、発達した積乱雲の真下で起こる現象で、尖った物の先端に静電気が溜まって、上空の積乱雲との間で起こるコロナ放電により発光する現象で、はっきりと見られるのは稀です(イラスト参照)。瞬間的な落雷とは異なり、連続的に放電することが知られています。16世紀の地中海の船乗りが、船のマストの先の発光を見て、航海の守護神であった聖エルモが起した奇跡に違いないと感じたことからセントエルモの火と呼ばれました。なお、聖エルモは3世紀末の聖人で、偶然にも伊波礼毘古が東征した年代(280年ころ)と同時代であり、神聖な火とされたのも同じです。

▲セントエルモの火(イメージ)


 「急に辺りが暗くなって雹(ひょう)が降った」と編纂者が伝承をそのまま残してくれたことにより図らずも、両軍が対峙していたのは発達した積乱雲の直下であったことが判明します。そして、正にこのような気象条件のもとでセントエルモの火は現われるのです。セントエルモの火を見ただけでは感電しませんが、いつ落雷してもおかしくない危機的状況であり、直ちに身を屈めるなどの避難行動をとらなければなりません。すなわち、恐れを為して眼が眩(くら)んで戦いをいったん中止した長髄彦は気象学的に正しい判断をしたのです。そして、両軍とも落雷に遭わないで済んだのは長髄彦のお陰なのです。

 記紀に自然現象が記されている事例はまだあります。それは、第二十一代雄略天皇の時代(470年頃)の一言主神(ひとことぬしのかみ)の説話です。

【 (古事記)雄略天皇が葛城山で狩りをした時、従者たちは紅い紐を着けて青い服を着ていた。すると向かいの尾根にも天皇の行列とそっくりな衣装を着けた行列が見えた。相手は一言主神と名乗った。

(日本書紀)雄略天皇が葛城山で狩りをした時、突然背の高い人が見えた。谷をはさんで向かい合った。天皇にそっくりな姿をしていた。相手は一言主神と名乗った。  】

 この説話は、雄略天皇が葛城山で狩りをした時に体験した「ブロッケン現象」が神話になったのであろうと、『季刊邪馬台国』(梓書院)第50号に編集部が書いています。「ブロッケン現象」とは太陽を背にして立つ人の前方に霧雲がある時に、霧粒により光が回折することで虹色の小さな同心円ができて、その真ん中に自分自身の影が映る現象で、自分が動けば影も動きます(写真参照)。光の回折とは、光が霧粒などの障害物に当たると直進ではなく方向が折れ曲がる現象で、曲がる角度が光の色によって異なるために虹色に分光します。ドイツのブロッケン山(1142m)で良く見られたためにこの名が付きました。

▲ブロッケン現象


 古事記には従者たちが紅い紐や青い服を着けていたとあり、ブロッケン現象が虹色に分光することと整合しています。また、日本書紀には背の高い人が見えたとあり、本当は自分自身の影なのですが、巨人のような姿が霧雲に写ったために神が現われたと錯覚したのでしょう。一言主神は奈良県御所市の葛城山の麓にある葛城一言主神社の祭神で、ずばり一言で託宣してくれる有難い神として信仰を集めています。私は福岡空港を飛び立ち東京へ向かう飛行機の左窓からブロッケン現象を見たことがあります。眼下の雲海に虹色の輪が現われ、輪の真ん中には搭乗機の灰色の影が写っていました。その際に私は後部座席に座っていたので、影の真ん中は搭乗機の後部になっていました。前部座席に座っていた人が見れば影の真ん中は搭乗機の前部になっていたはずです。

 古代においては、金色のトビや一言主神が現われたという解釈が精一杯だったわけですが、急に辺りが暗くなって雹が降ったことや、向かいの尾根に背の高い人が現われて従者たちは紅い紐や青い服を着けていたという、背景描写もしっかりと残して置いてくれました。そのお陰で現代の知識をもってすれば、これらの現象はセントエルモの火やブロッケン現象だったと復元できるのです。「金色のトビ」を単なる作り話として片付けてしまうのは、少し早いのかも知れません。記紀の編纂者は、当時の人々には理解できなかった現象についても、伝承に残された背景描写とともに記録しています。その中には、現代の自然科学の知識によって、実際に起きた現象の痕跡を読み取れるものが含まれている可能性があります。もちろん、だからといって記紀の記述がすべて史実になるわけではありません。しかし、最初から作り話と決めつけるのではなく、その中にどのような「真実の核」が含まれているのかを一つひとつ検討していくことが大切だと思います。

 さて、金色のトビに恐れを為して戦いをいったん中止した長髄彦は、伊波礼毘子に使者を遣わしました。使者は「天津神である邇芸速日命に妹を嫁がせて臣下となっているのに、別の天津神が攻めてきました。邇芸速日命が天津神である証拠の品はここにあります。」と長髄彦の言い分を伝えました。伊波礼毘子は証拠の品が本物であると認めました。一方、長髄彦は戦いを止めませんでした。そこで邇芸速日命は長髄彦を殺して伊波礼毘子に帰順しました。

 しかし、伊波礼毘子は邇芸速日命が天津神であると認めたのですから、伊波礼毘子の方が、先に奈良へ天降りしている邇芸速日命へ帰順しても良さそうなものです。それなのになぜ逆に、邇芸速日命の方が後から天降りした伊波礼毘子へ帰順したのでしょうか。それは、同じ天津神であることは天羽羽矢と歩靫で確認できましたが、この連載でこれまで考えてきたように、伊波礼毘古が天照大御神から受け継がれた正統性を示す宝物を携えていたとすれば、それが邇芸速日命より上位に位置づけられた理由の一つだったのではないでしょうか。また、そのような正統性の問題だけではなく、鉄鏃で攻めた伊波礼毘子と、銅鏃や石鏃で守るしかなかった長髄彦という国力の差を、邇芸速日命は正しく判断して伊波礼毘子に帰順したのでしょう。

 さらに言えば、奈良への侵攻は北部九州の高天原の高木神や二代目天照大御神(台与)の意志(遺志)による「高天原三征」という日本統一を目指す大きな目的がありました。後世に物部氏となる一族が相次いで伊波礼毘子に帰順したのも、「高天原三征」の原点に立ち返って大同団結する判断があったからと言えます。邇芸速日命に帯同した物部氏も、伊波礼毘子に帯同した物部氏も、ともに高天原を支える名補佐役、名参謀であり大所高所の判断ができたのです。

 ところで、奈良の豪族であった長髄彦の使者が伊波礼毘子へ伝えた「天津神の臣下となっているのに、別の天津神が攻めてきた」は理に適った主張なのに、殺されてしまった長髄彦は気の毒に思えます。しかし、邇芸速日命が伊波礼毘子へ帰順したことにより戦いが早期に終わり、長髄彦の血筋も物部氏の祖となった宇麻志麻治命に流れてその後の大和朝廷を支えていくことになるので、まったくの死に損でも無かったと思うしかありません。

 伊波礼毘子に次々に帰順した物部一族は伊波礼毘子(神武天皇)が建国した大和朝廷で優遇されました。邇芸速日命の御子の宇麻志麻治命は物部氏の祖となり、物部氏の娘は次々と天皇の妻になりました。また、高倉下(天香語山命)は東海地方の尾張氏の祖となり、八咫烏(賀茂建角身命)は京都府南部の賀茂県主や葛城国造の始祖となり、亡くなると京都市の下鴨神社の祭神として鎮まりました。さらに、弟磯城は奈良の磯城県主(しきの あがたぬし)になりました。磯城は纒向遺跡周辺の地域です。また、槁根津日子は倭国造(やまとの くにのみやつこ)の地位を得ています。

 なお、これまで見てきたとおり古事記では邇芸速日命が帰順していますが、『先代旧事本紀』では第19回に書きましたが、伊波礼毘子が奈良を攻め入った時には既に邇芸速日命は亡くなっており、御子の宇摩志麻治命が長髄彦を殺して伊波礼毘古に帰順する説話となっています。伊波礼毘古は邇邇芸命(弟)の子孫なので、邇芸速日命(兄)の子孫である宇摩志麻治命が活躍する『先代旧事本紀』の方が世代交代を反映していて自然です。どちらにしても大筋は一緒なので問題はありません。

 九州から中国、四国、北陸、近畿、東海地方まで(もっと広域かも知れません)を統一した伊波礼毘古は、畝傍(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)を築いて大和朝廷を開き、初代神武天皇に即位しました。白檮原宮は現在の橿原(かしはら)神宮の周辺です。

 神武天皇は、大物主命と勢夜陀多良比売との娘である比売多多良伊須気余理比売と結婚して神沼河耳命(かみ ぬなかわ みみのみこと)が産まれ、二代目の綏靖(すいぜい)天皇になります。神武天皇が亡くなると畝傍山の東北の陵に葬られました。

 これまの連載の流れを極短くまとめれば、「北部九州にあった邪馬台国の卑弥呼や台与や高木神などの天津神の子孫が、多くの物部一族に支えられて高天原三征を行い、二度にわたって奈良へ進出し、ついに奈良の橿原を都にして広域統一国家である大和朝廷を打ち建てた」ことになります。まさに『九州人が邪馬台国と大和朝廷を興した』のです。もちろん、この連載に登場する「九州人」は神ではなく、実在した九州「人」です。

 神武天皇により大和朝廷が開かれると、近畿周辺にあった高地性集落はすべて廃絶され、ほぼ同時期に長髄彦の威信財だった大型銅鐸は一斉に埋められ、さらに唐古・鍵集落も廃村となりました。私には、これらのほぼ同時期に起きた現象を、高天原勢力による新体制の成立という一つの流れとして考えると、整合的に説明できるように思えます。

 知の巨人と言われたジャーナリストの立花隆氏も、安本美典氏の『大和朝廷の起源』(勉誠出版)について、北九州にあった邪馬台国が大和地方へ東遷し、それが神武天皇の東征神話として伝えられたとする安本氏の説を、大筋で肯定的に評価しています(※1)。

 さて、神武天皇が大和朝廷を開いたのはいつのことなのかは、古事記には暦が記されていないので分かりませんが、日本書紀によれば皇紀元年1月1日と記されています。皇紀元年が西暦何年に当たるのかを日本書紀の暦(こよみ)から割り出すと、何と西暦紀元前660年になります。すると、日中戦争の最中の1940年(昭和15年)は皇紀2600年に当たるので、戦意高揚のために挙国一致の式典が開かれて「紀元二千六百年」という歌も作られました。しかし、幾ら何でもこれは古く見積もり過ぎであり、日本書紀の暦による実年代の見積もりには真実の核がないと思います。大和朝廷が誕生した年代は、安本美典氏の推定による西暦280年頃が妥当でしょう。

 皇紀元年(紀元前660年)1月1日を太陽暦に換算した2月11日は、明治6年から紀元節と称する祭日になり、戦後は建国記念の日と改称されています。皇紀元年をそのまま実年代として受け入れることには無理がありますが、「建国記念の日」は現在も国民の祝日として定着しています。ただし、紀元節から建国記念の日へと改められる過程では、紀元節が現人神としての天皇制や皇国史観、国家神道と深く結びついていた歴史をどう考えるかをめぐって、国会でも議論がありました。


※1 立花隆「私の読書日記」『週刊文春』2005年8月25日号(安本美典氏による紹介・転載による)。


高橋 永寿(たかはし えいじゅ)

1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。

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