第17回 出雲の国譲りと「雲太、和二、京三」
前回は須佐之男命と大国主命についての出雲神話の前半を紹介しましたが、今回はその後半に当たる、大国主命による領土の急拡大に対して高天原が取った対抗策を見て行きます。 【 出雲が高天原に従わずに騒がしくなっているため、二代目天照大御神(台与)と高御産巣日神(高木神)は八百万(やおよろず)の神々と相談した結果、天之忍穂耳命(あめの おしほみみのみこと)の弟である天菩比命(あめの ほひのみこと)を出雲の騒乱の収拾に派遣した。ところが、天之菩卑命は大国主命に取り込まれて三年経っても高天原に復命しなかったので、天津国玉神(あまつくにたまのかみ)の御子の天若日子(あめのわかひこ)や、建御雷之男神(たけみかずちの おのかみ)などを次々に出雲へ派遣した。建御雷之男神が大国主命に「豊葦原の瑞穂の国は天之忍穂耳命が統治する国である。あなたはどう考えるのか」と問うと、大国主命は「私の息子の事代主神(ことしろぬしのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)に答えさせる」と言った。事代主神は出雲の国を高天原へ譲ると答えたが、建御名方神は建御雷之男神と力比べをすることにした。しかし、建御名方神はあっさりと力負けしてしまい信濃の諏訪(すわ)へと逃げて行った。これが諏訪大社の起源で、建御名方神は諏訪大社の祭神として鎮まった。建御名方神に勝った建御雷之男神は、改めて大国主命に国譲りを迫ると、「私のために太い柱で立派な千木(ちぎ)を持つ神殿を建て、さらに事代主神が天津神に仕える立場になるのなら、豊葦原の瑞穂の国を天津神に譲ろう。」と答えた。 】 そもそも伊邪那岐命が出雲の伊邪那美命を妻にした時点で、高天原は出雲を支配していました。その後は須佐之男命を出雲へ天降らせて発展させました。そして、大国主命は須佐之男命の娘の須勢理比売命を正妻として出雲を引き継ぎました。ここまでは高天原の思惑どおりに進みましたが、その後、大国主命は各地の姫神と政略結婚することにより出雲の領土を鳥取、石川、新潟まで急拡大させ、宗像三神の二神との結婚も果たしました。晩年には大阪の北部と南部も掌中に収めたようですが、大阪の中心部や奈良までは食い込めませんでした。いずれにしても、出雲出身の国津神の大国主命がここまで領土を急拡大させたら、高天原としては穏やかではいられません。高天原は大国主命を脅威に感じて、天菩比命を皮切りに次々と神々を天降りさせて圧力をかけ出雲を抑え込もうとしました。 ところが、天之菩卑命は三年経っても大国主命に取り込まれて高天原に復命しませんでした。しかし、天之菩卑命は高天原の命令に背いた訳ではないのです。後の大和朝廷時代になると、天之菩卑命は国譲りさせた功績が認められて出雲国造(いずもの くにのみやつこ)の祖になっています。このことから、天之菩卑命は復命しなかったのではなく、三年くらいではまだ道半ばで復命できなかったのです。それはそうでしょう、出雲の領土を急拡大させたのはひとえに大国主命のたぐい稀なる統治能力によるものでした。高天原がその果実をすべて奪おうとしても「はい、分りました」とならないのは当たり前の話です。 高天原は天若日子や建御雷之男神を次々に出雲へ天降りさせて圧力を掛け続けたことにより、やっとのことで大国主命は「国譲りについては私の息子の事代主神と建御名方神に答えさせる」と応じたのです。出雲の命運を息子たちに任せた時点で、実は大国主命は既に亡くなっていて、大物主命(おおものぬしのみこと)と名を変え、出雲の実権は息子世代に移っていた可能性もあります。 建御名方神を諏訪へ敗走させた後に、建御雷之男神が大国主命(大物主命)に改めて国譲りを迫ると、「私(大国主命)のために、太い柱で立派な千木を持つ神殿を建ててくれれば、豊葦原の瑞穂の国を天津神に譲ろう」と答えました。そして高天原へ要求した国譲りの条件は認められて出雲大社が創建されました。ここで注意する点は、大国主命が「豊葦原の瑞穂の国を天津神に譲ろう」と述べている点です。つまり、出雲だけではなく出雲が支配していた中国地方、北陸地方と大阪の一部のすべてを譲ろう、と述べている点です。北部九州の高天原は出雲の国譲りにより、これまで領土としていた南部九州に加え、中国地方の日本海側や北陸地方、大阪の一部をも掌中に収めたのです。 ではなぜ、鉄器製造も盛んで、四隅突出型方墳という高塚を先駆けて築造する国力があり、しかも北陸から大阪の一部までの広大な領土を持つに至った出雲が、時間は稼いだかも知れませんが、さしたる戦う様子も見せずに高天原へ国譲りしてしまったのでしょうか。 その理由として次のようなことが考えられます。まず、大国主命が高齢化するか亡くなると、カリスマ性が失われて国力の維持が難しくなったことです。次に、確かに徹底的に戦えば出雲は高天原に勝利する可能性がありましたが、負ける可能性もありました。そして、大国主命は無条件降伏した訳ではなく、国譲りの条件として出雲大社の創建だけでなく、大国主命の子の事代主神が高天原に仕えることも条件としていることを見逃してはいけません。前回紹介したとおり高天原時代から大和朝廷時代に成ると、大国主命の血筋は、阿遅鉏高日子根神(あじすきひこたかねのかみ)が加茂氏の祖となり、天香語山命(あめのかごやまのみこと)が尾張氏の祖となっています。さらに、大国主命と三島の溝咋の勢夜陀多良比売との間に産まれた娘の比売多多良伊須気余理比売(ひめ たたら いすけよりひめ)は、神倭伊波礼毘古命(かんやまと いわれひこのみこと)すなわち後の初代神武天皇の妻となり、大国主命の血筋はしっかりと皇統につながっているのです。出雲は高天原と徹底的に戦ってお互いに消耗することを避け、大同団結して広域国家日本の建国を目指したのだと思います。 さらに、次回紹介する「出雲国造神賀詞(いずもの くにのみやつこの かんよごと)」には国譲りの条件として、出雲大社に祀るだけではなく、奈良県桜井市の三輪山にも祀るように条件を加えていたことがわかります。実際に大和朝廷が誕生すると、三輪山を神域とする大神(おおみわ)神社が創建されました。祭神は大国主命の死後の名前である大物主命です。大国主命自身は大阪の一部は掌握しましたが、生前には奈良までは攻略できませんでした。そのため高天原に後の世を託して、大和朝廷が誕生してから奈良進出の悲願を果たしたのです。 大物主命の「物」にはどんな意味があるのか古語辞典を引いてみると、「物体」の他に「超自然的な怖ろしいもの、物の怪(もののけ)、鬼神、怨霊(おんりょう)」などの意味も載っています。大国主命から大物主命へと名前が変わった訳には、物の怪の霊威や死霊などの意味が込められているように思います。大国主命(大物主命)は、出雲の領土を急拡大させた実力者であり功労者でした。このような統治者に国譲りをさせたわけですから、丁重に祀らないと祟って災いを招くことが心配されるのです。しかし、丁重に祀り上げれば逆に高天原の守り神になるというのが神道の教えです。 平安時代に平安京清涼殿に落雷があり死傷者が出ましたが、この原因は無実の罪で太宰府に左遷されたまま亡くなった菅原道真が雷神と化して災いを招いたのだと信じられました。しかしその後、菅原道真は京都の北野天満宮や太宰府天満宮に天神として祀り上げられて大和朝廷の守り神になりました。大物主命が三輪山を神域とする大神神社に祀られているのは、このような神道の教えの先駆けと言えるでしょう。 出雲大社は島根県出雲市に鎮座し、祭神はもちろん大国主命です。現在の本殿は1744年に建てられたもので高さは24mもあるのですが、平安時代にはさらに高く2倍の48mあったと、本居宣長(もとおり のりなが)が『玉勝間』に記しています。 また、現在の出雲大社の宮司である千家国造家(せんけ こくぞうけ)に伝わる「金輪御造営差図(かなわ ごぞうえい さしず)」では3本の柱を金輪で束ねて1本の宇豆柱(うづばしら)とし、これを3行3列(合計9本)並べた本殿設計絵図が伝えられています。そして、2000年には出雲大社境内から、直径約1.4mの杉柱を3本束ねて直径を約3mにした柱の根元だけが腐らずに出土し、「金輪御造営差図」は絵空事ではなく、事実だったとわかったのです。図面どおりの柱の太さがあれば高さ48mの本殿も建てられると工学的に計算されています。 平安時代に源為憲(みなもとの ためのり)が作った「口遊(くちずさみ)」という貴族の子ども向けの教科書があります。そこに「雲太、和二、京三(うんた わに きょうさん)」という建物の高さの順位の覚え方が載っています。出雲大社の高さが1位で、大和の東大寺大仏殿が2位、京都平安京大極殿が3位という意味です。古代の出雲大社の本殿の高さが48mあれば、大仏殿が45m、大極殿が27mなので順位は合っています。常識では(?)、大王の宮殿や寺院より立派な建物が地方都市に建てられることはありえないでしょう。しかし、大国主命は常識を超えるほどに畏怖される人物だったのです。高天原の後身である大和朝廷は大国主命の要求どおりに、太い柱と立派な千木を持つ神殿を建てて守り神として祀ったのです。しかし、このように高い神殿はたびたび倒壊してはその度に再建されたという伝承も残っており、現在は高さが抑えられて24mに半減されています。いずれにしても、出雲大社は大国主命が実在の人物であり、記紀神話が記紀実話だったことも物語っているのです。 出雲国には、東大寺大仏殿や平安京大極殿を超える格別な出雲大社が現存するだけでなく、超弩級の遺跡がたくさん発見されました。まずは1984年に発見された神庭荒神谷(かんば こうじんだに)遺跡です。この遺跡は出雲市斐川町神庭にあり、何と358本もの銅剣が丁寧に並べられて一括埋納されていました。この本数はそれまで全国から出土した銅剣の総数の約300本を1か所で凌駕するものでした。さらに翌年には7m離れた地点から銅矛16本と中型銅鐸6個も発見されました。これらの遺跡の出土物はすべて国宝になっており、私は東京で開かれた特別展示会で実見しました。 発見はこれだけに留まらず、1996年には神庭荒神谷遺跡の南東方向約3.3kmにある雲南市加茂町岩倉から加茂岩倉(かもいわくら)遺跡が発見され、39個の中型銅鐸が一括して出土しました。この中型銅鐸もすべて国宝になっています。 神庭荒神谷遺跡が発見される1984年までは、出雲なんて出雲大社くらいしかない地方都市で、こんな所が日本建国に関係する舞台になるはずもなく、出雲神話は作り話に間違いないと、多くの考古学者が高をくくっていました。ところが1984年からの発見に継ぐ発見により、出雲神話には史実が反映されていると考えざるを得ない状況が生まれました。それにもかかわらず、頑なに出雲神話をおとぎ話のままにしておきたい考古学者が多いのが実情です。出雲神話に史実の核があると一度認めてしまうと、それが蟻の一穴となって邪馬台国奈良説が揺らぐことを怖れているのでしょう。 これらの銅剣、銅矛、中型銅鐸の持ち主は誰で、どのような訳があっていつ頃に一括埋納されたのでしょうか。 まず持ち主ですが、神庭荒神谷遺跡の「銅矛」からは大国主命の別名である「八千矛神(やちほこのかみ)」が連想されます。加茂岩倉遺跡の銅鐸は、50センチ前後の中型で、第6回に紹介した近畿式や三遠式のように1メートル前後にもなる大型銅鐸ではありません。また、同じ鋳型で作られた「同笵(どうはん)銅鐸」が鳥取、岡山、兵庫、大阪、和歌山、徳島、奈良(上牧村)から出土しています。この内、兵庫と大阪の出土地は、神戸から大阪の淀川の北側にかけての狭い範囲に集中していて、和歌山は大阪の南部の府県境付近からの出土です。つまり、同笵銅鐸の出土地は、鳥取や岡山を含めて、大国主命が政略結婚により勢力を拡大した領土とピッタリと重なっています。例外的に奈良(上牧村)は大国主命の勢力範囲ではありませんが、奈良へも食指を伸ばしていたことは大国主命の死後の名前である大物主命が奈良の三輪山に鎮まっていることからうかがえます。 このように、出土した銅剣、銅矛、中型銅鐸の持ち主は大国主命であったと考えると、どのような訳があっていつ頃に一括埋納されたのかが類推できます。それは、高天原への国譲りに伴い、それまでの威信財であった中型銅鐸などの祭祀を断念したから、あるいは威信財は廃棄せよと高天原から命じられたからでしょう。そしてその時期は、大国主命の国譲りが行われた270年頃と考えられます。一方、大型銅鐸が近畿や愛知、静岡などで一斉に土中に埋められるようになるのは、これより少し後の、奈良に大和朝廷が誕生した280年頃になると考えると、歴史の流れが整合性をもって理解できます。 さて、先ほど書いたように、奈良の三輪山の大神神社には大国主命の死後の名前である大物主命が祀られています。一方、福岡県筑前町(旧・三輪町)の大己貴(おおなむち)神社には大国主命の生前の別名である大己貴命(おおなむちのみこと)が祀られています。ふたつの神社とも日本最古の神社であるという伝承がありますが、死後の名前よりも、生前の名前で祀られている福岡の大己貴神社の方が日本最古の神社として相応しいと思います。もっとも、さらに古い天照大御神(卑弥呼)を祭神とする神社が日本最古に相応しいと思います。そのような神社は、第12回に書いたとおり、福岡県朝倉市にある、麻氐良布(まてらふ、あまてらす)神社や、一ツ木神社(太神宮(たいじんぐう))や鷂天(はいたかてん)神社だと思います。なお、伊勢神宮は4世紀以降に創建されたので問題外です。 南部九州と出雲、奈良への「高天原三征」の中で、出雲神話は一番詳しく長い物語として記紀に記されています。その理由は、出雲攻略が日本統一に当たっての最も重要な大同団結の過程であり、また最も手こずったことの反映であるように思います。そして最終的に、大国主命が拡大させた広大な領土のすべてを高天原が掌握できたことにより、その後の神武東征という奈良への攻略による日本統一の総仕上げが成功したのだと思います。 高橋 永寿(たかはし えいじゅ) 1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。邪馬台国の会会員。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。
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