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第9回 プラトン曰く、器の小さい人を哲学者にしてはいけない 

タイはカフェがやたらと多く、おいしいコーヒーが安い値段で飲める。多少高くても80バーツ(=現在は400円)程度で、実際は300円程度(60バーツ)で飲める店が多い。ずいぶん慣れてしまったためか、去年の秋、早朝に関空に降り立ったときに寄ったマクドナルドのコーヒーが全然おいしくなくて驚いた。ファミリーマートのコーヒーは少々苦いもののそこそこおいしかった。

スタバのようなチェーン店では容器のサイズが選べるが、タイのその辺の個人カフェではあまりSサイズとLサイズというような区別はなく、どこもだいたい日本のコンビニコーヒーのSサイズくらいだ。東南アジアなのでホットを頼むこともそれほど多くなく、たっぷり氷が入ったアイスコーヒーは、1杯で長時間楽しめる。

ところでネオ高等遊民は「器が小さい」ということについて、よく考えている。これは最近お気に入りの徳目であって、ネオ高等遊民はどのような人間かと、アリストテレスのカテゴリーでいうところの「性質」を聞かれたら、「色が白く、教養があり、器が小さい」と答えれば、おそらく半分以上は説明できている。ちなみに教養があるというのは、古代ギリシアでは「読み書きができる」くらいの意味であるからご安心いただきたい。

ともあれ器の小ささというのは、ネオ高等遊民の中心的な性質である。しかし器が小さいとは、どのような意味なのか。すぐに思いつくのは、けち。心が狭い。度量がない。細かいことにこだわる。すぐ損得を考える。人の言動を大きく受け止められない。寛大ではない。気前がよくない。といったところだが、やはりこれほど自分にしっくりくる言葉もない。

適当に調べたところ、「器が小さい」という言葉には、『論語』に用例があるそうだ。孔子が管仲という政治家を評して「管仲の器は小なるかな」と言ったらしい。そこである人が、「管仲は倹約家だったのですか」と聞く。つまり、「器が小さい」と聞いて、まず「ケチだったのか」「つましい人だったのか」と受け取ったのである。昔の人も、「器が小さい」と聞くと、まずケチくささを連想したらしい。しかし孔子は、それを否定する。管仲は倹約家ではない。むしろ奢っているし、礼を知らない。

いろいろ解釈はあるらしいが、ともあれ器が小さいとは、単に金を使わないことではない。ケチは入り口にすぎない。その奥にあるのは、ものごとを大きく受け止められないこと、意味を広く見られないこと、礼や徳にまで考えが及ばないことのようだ。

器量の大きい人物が世の中にどれほどいるかわからないが、自分の器の小ささというものは、意識してみると日常のいたるところに顔を出すと思われる。

 ◇ ◇ ◇

私の話をしよう。タイの自宅に家事のお手伝いさん(タイ語ではメーバーンという)が来てくれていたことがある。掃除や洗濯をしてくれる。来たばかりのころはていねいにやってくれるが、慣れてくると、だんだん仕事が雑になることもある。四角い部屋を丸く掃いて終わり、アイロンをかけるはずの洗濯物がそのまま、ということもある。こちらとしても毎回こまごま言うのは嫌なので、たまに自分が大がかりな片付けをしているふりをして、本格的にいろいろ掃除してもらう。これは別に器が小さいわけではない(と信じたい)。

ある涼しい日のことだった。雨季で、朝から曇っていて、そこまで暑くない日だった。エアコンなしでも、まあ過ごせる。私は電気代を気にして、扇風機だけで過ごしていた。すると、お手伝いさんはエアコンをつけて、ソファで携帯電話を見ていた。うん、別に全然いい。休憩してもいい。エアコンをつけてもいい。くだらなそうなドラマを音割れしかけるほどの大音量で流していてもよい。しかし、そういう思いは、すべて後付けにすぎない。しかし私は、最初に不可避的に思ってしまった。

「俺はつけてなかったけどね」

器が小さいとは、実にこのようなものである。理屈では説明しきれない、この感じ・このクオリアを直観していただきたい。文字通り、反射的な思いである。いかなる意味でも意識による先行が不可能な、反射的な思想・観念である。

さて、これだけだと「けちくさい」と言ってもほとんど同義であるが、「器」という言葉はよくできているように思われる。器とは、何かを入れるものだ。茶碗でも皿でもいいが、器には容量がある。それが人間についても使われる。器量は人の能力や度量や資質をあらわす言葉にもなる。つまり、器が小さいとは、世界を受け入れる容量(度量)が小さいということだ。

ごく最近も、自らの器の小ささを発見した。冒頭で話したカフェに関してだ。ネオ高等遊民読書会サークルでは、お昼の12時からほぼ毎日ギリシア語の読書会をやっている。タイでは朝10時なので、ときどきカフェから読書会を開いている。ある程度広くて、少し話していても迷惑にならないこと。長居しても気まずくないこと。コーヒーがおいしいこと。最後に、むろん最後だから重要でないわけではないが、できれば安いこと。スターバックスは高くて無理だ(130バーツ=650円)。

それで最近、かなり都合のよいカフェを見つけた。広くて、居心地がよくて、コーヒーもうまい。しかも安い。私は浅煎りのコーヒーが好きなのだが、ずいぶんフルーティーでおいしかった。あまりにおいしいので、席について5分か10分くらいで飲み終わりそうになった。しかし、読書会が控えていたため、すぐに飲み終わってしまうと困り、半分ほど飲んで少々控えていた。

読書会が始まるとき、私はみんなにその話をした。

ネオ「今日のコーヒー、あまりにおいしくて、すぐ飲み干しそうになったから我慢しましたよ」

参加者「じゃあ、おかわりすればいいじゃないですか」

ネオ「おかわり? おかわりしたら二杯分払うことになるじゃないですか。何言ってるんですか。」

参加者「それはそうですけど、おいしかったんですよね」

ネオ「おいしいですけど、一杯50バーツ、250円ですよ。だから、2杯飲んだら500円ですよ。何言ってるんですか。」

別の参加者「安い」

参加者「居心地がよくて、これからも来たいお店なら、応援するつもりで頼めばいいんですよ。お店にとっても嬉しいことだし。」

ネオ「ぐぬぬ」

言われてみれば、その通りである。「おいしくてすぐ飲み終わりそう。だったら、もう一杯頼めばよい」。明晰判明な文である。にもかかわらず、私はその発想をまったく持っていなかった。私にとって、カフェのコーヒーはかなりの割合で「場所代」だった。もちろん、おいしいに越したことはない。けれども、根本的には、椅子に座る権利、そこにしばらくいてよい権利を買っているつもりだ。そうだとすれば、一杯頼んだ時点で、場所代は支払い済みなのであり、おかわりをすると、同じ場所にいる権利に対して料金が倍になるというふうに考えていた。コーヒーを飲んでいるのではない。場所を買っている。だから二杯目を頼むことができない。

これもまた、「器の小ささ」であろう。

言ってみれば、ネオ高等遊民の器はコーヒー1杯分ということだ。一杯目のコーヒーは気前よく頼む(当たり前だが)。50バーツのコーヒー。おいしい。安い。ありがたい。居心地もいい。しかし、二杯目になると、どうであろうか。おいしかったのだから、もう一杯頼めばいい。気に入った店なのだから、少し多めにお金を落とせばいい。長く居させてもらうのだから、そのぶん支払えばいい。再び淹れられた二杯目のコーヒーには、香りと味わいのみならず、そのような意味もまた含まれている。ところが、私の器のなかに収まる意味は、ただ一つ。

「二杯頼んだら、二杯分かかる」

もちろん、おかわりしない理由もないわけではない。一杯目がいちばんおいしいに決まっている。二杯目は、どうしたって一杯目より感動が落ちる。さっき感じたフルーティーな香りも、二杯目ではそこまで新鮮ではない。一杯目と同じ五十バーツを払うのに、一杯目ほどの感動は得られない。そう考えると、私はますます二杯目を頼めなくなる。だが、だから何なのか。ケチであることに理屈をならべたところで、それが何になるのか。

そこでTwitterにこんな投稿をした。

 ◇ ◇ ◇

長々と話しているが、「器の小ささ」という問題は、実は哲学と無関係ではない。むしろ本丸中の本丸である。

というのも、プラトンは『国家』という政治哲学の書のなかで、哲学者(哲人王)にふさわしい魂(資質)について語っている。哲学者とは、目先のものだけを見る人間ではない。人間的なものだけでなく、神的なもの、宇宙的なもの、全体を見ようとする人間である。だから、小さなことにこだわる魂、けちくさい魂、狭い魂は、哲学者にふさわしくない。ケチなところが少しでもあるような人間は、決して哲人王教育の選抜者のなかに含めてはならないとまで言われていたはずだ。

私は年年歳歳、この箇所について安心を覚える(?)。ネオ高等遊民が哲学者ではありえないことについて、プラトンのお墨付きをもらえるからである。コーヒーをおかわりできない人間、エアコンを中途半端に我慢する人間は、哲学に向いていない。

しかし「哲学者」という類型を人類でほぼ最初に打ち立てたプラトンが言う以上、この「器の小ささ」を抜きにして哲学は語れない。専門領域のなかで議論し、論文を書き、概念を整理することだけが哲学なのではない。もちろん、学問的部分も大事ではあるが、哲学とは、もともと生き方と切り離せないものであった。そもそもそういう器の小さい人間は、学問的にも大成しないという含意すらあるかもしれない。

プラトンやその弟子アリストテレスは、ソフィストや弁論術やその他の学問と対峙しながら、哲学というものの理念を打ち立てていった。哲学とは、単に知識を増やすことではない。議論に勝つことでもない。目先の利益を得ることでもない。魂がどのような仕方で真理へ向かうのか。人間がどのような生を生きるべきなのか。そういう問題と切り離せないものだった。だからこそ、哲学者の資質が問題になる。どれだけ頭がよくても、どれだけ論理的に話せても、器が小さいなら、哲学者にはふさわしくない。全体を見ると言いながら、50バーツ(250円)の追加注文にすら考えが及ばないような人間に、哲学など語らせてはいけないのだ。

にもかかわらず、ネオ高等遊民は哲学を語る。というより、哲学そのものを語るというより、こんなふうに哲学者とは何か、資質とは何かということを通じて、己の卑小を語る。それはなぜかといえば、器の小ささなりなんなりを自覚することが、少なくとも私にとっての哲学の始め方なのだ。器の大きい人物になりたいとはもはや微塵も思わないが、「器の小ささ」を考えることによって、日常にひとつ哲学が入り込むという実感は持てる。「あ、いま自分、器小さかったかな」と思えること。それが哲学とともに生きるということのひとつの形ではないか。

哲学者は気宇壮大であるがゆえに、人からは間抜けに見えることがあるという。それを象徴するのが井戸に落ちたタレスの逸話である。しかしネオ高等遊民は井戸に落ちたタレスとしてではなく、それを見て笑ったトラキア女として哲学を始めるのだ。私にはこのような始め方しかできないのだ。

 ◇ ◇ ◇

かつて、クサカベクレスは立命館大学のシラバスにおける学生への要望欄で次のように書いていた。

「常に西洋形而上学の運命に思いを馳せること」

まさに、哲学を志す者に課すにふさわしい、気宇壮大な要望である。

だがネオ高等遊民はこう言う。

「常におのれの器の小ささに思いを馳せること」


ネオ高等遊民

日本初の哲学YouTuber。タイ在住。著書『一度読んだら絶対に忘れない哲学の教科書』(2024)。『ゆる古代ギリシア哲学入門』(2025)。
YouTubeチャンネル「ネオ高等遊民:哲学マスター」:https://www.youtube.com/@neomin

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