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第20回 ナチ時代の学問と反ユダヤ主義

私の勤務校で数学を教えている瀬戸道生氏から、近年ある有名な数学者のナチス加担が問題視されて、その数学者の名前を冠した賞の名称が変更されたという話を伺った。瀬戸氏は私の著作を読んで、ハイデガーのナチス加担に対する非難が、最近の「キャンセル・カルチャー」の隆盛とともにかつて以上に高まっていたことを知っておられた。数学の世界でも似たような事例があるということで、私に情報提供してくださった。

その賞はロルフ・ネヴァンリンナ賞といい、情報科学における数学的側面における傑出した貢献を称えて四年に一度与えられる賞として、国際数学者会議(IMU)によって1981年に創設された。ロルフ・ネヴァンリンナ(1895-1980)はフィンランド人の数学者で、複素解析学において大きな功績を遺した。彼はヘルシンキ大学学長に在任中の1942年に武装親衛隊フィンランド義勇大隊の徴募を司る委員会の委員長を務めた[1]。このナチスへの協力が問題視されて、2018年に同賞はIMUアバカス・メダルに改称されることになった。

フィンランドはナチス・ドイツとソ連にはさまれた小国であった。1939~40年の冬戦争ではソ連と戦い、善戦したものの領土割譲を強いられた。フィンランドがソ連に対抗するために、ナチス・ドイツの力を頼みにするのは自然な成り行きであった。1941年6月に独ソ戦が勃発したとき、フィンランドもドイツ側に立って参戦した。義勇大隊の派遣はこうした状況のもと、フィンランド政府とドイツとのあいだで取り決められたものである。

ネヴァンリンナは前任者がドイツ側の信頼を得られなくなり委員長を辞任したあと、そのポストを引き継いだ[2]。彼は親ドイツ的な人物だと見なされていたのだろう。その背景としては彼の母親がドイツ人であったこと、また彼が第一次大戦中、まだフィンランドがロシア帝国の支配下に置かれていた時代に、ロシアからの独立運動にシンパシーをもっていたことなどが挙げられる。独立を目指すフィンランドの若者は、当時ロシアと戦っていたドイツに渡り、そこで義勇兵としての訓練を受けた。ネヴァンリンナもそれに参加しようとしたが、両親に引きとめられ断念し、学業に専念したという[3]

また当時、ドイツの数学研究は世界最高の水準を誇っており、ネヴァンリンナはすぐれた数学者としてドイツの数学者たちと密接に交流していた。そしてドイツのゲッティンゲン大学で一年間、客員教授として教鞭も取ったことがあった。

このようにネヴァンリンナはドイツとの強力なコネクションをもっていた。しかし武装親衛隊義勇大隊の徴募委員会の長を務めるにはそれだけでは足りず、親衛隊が護持するナチズムの世界観に親和的であることも求められたであろう。実際、彼の経歴からは、彼がナチズムに対してどうやら一定の理解を示していたらしいことが読み取れるのである。

ネヴァンリンナがゲッティンゲン大学で教鞭を執ったことは今も触れた。彼が同大学の客員教授を務めたのは1936年冬学期から1937年夏学期の一年間であった。ゲッティンゲン大学は1920年代、数学や物理学において世界最高の研究水準を誇っていた。しかしその数学者や物理学者の多くがユダヤ人であったため、1933年4月に施行された職業官吏再建法――行政機関から「非アーリア人」を追放するという政策――によってきわめて大きな打撃を受けることになった[4]

数学関係者についていうと、数学研究所の所長リヒャルト・クーラント(1888-1972)をはじめとするユダヤ人や共産主義者だと疑われた教員はすでに夏学期のあいだに解雇や休職に追い込まれ、ゲッティンゲン大学を去っていた[5]。ゲッティンゲン大学に所属するユダヤ人数学者のうちエトムント・ランダウ(1877-1938)は、1914年8月1日時点で公務員であったという職業官吏再建法の例外規定により免職の対象にはなっていなかった。しかし学部長はランダウに対して「事態が明確になるまで」授業は行わないよう要請し、その学期は彼の助手ヴェルナー・ヴェーバーが授業を代行した。つまり免職はされなかったが、休職させられたわけだ。しかしその後、大学側からは何の音沙汰もなかったため、ランダウは秋学期には授業を自分で行うことにした。11月2日の講義初回に教室に向かうと、教室前のエントランスに百人弱の人だかりができていた。ランダウはそれを通り抜けて教室に入ると、自分の他に学生が一人いただけだった。ゲッティンゲン大学の突撃隊の学生たちがランダウの講義のボイコットを呼びかけて、聴講者が教室に入ることを妨げていたのだった[6]

このランダウに対するボイコット運動を主導したのが、オスワルト・タイヒミュラー(1913-1943)であった。彼はのちに数学者としてすぐれた業績を残し、とくにタイヒミュラー空間論にその名を残している。タイヒミュラーは1931年夏学期に大学に入学するとともにナチ党に入党し、突撃隊員として活動を始めた。1933年のナチスの政権獲得とともに、大学ではナチ系の学生たちが、学生団(Studentenschaft)〔学生自治会に該当する〕を構成する各学部の学生組織(Fachschaft)を完全に支配した。タイヒミュラーは自然科学・数学部学生組織の副指導者となった(p. 4)。

タイヒミュラーはボイコット後、ランダウの研究室に赴き、このボイコットは組織的な行動ではないと説明した。しかし実際は、突撃隊による組織的な行動であった。ランダウはタイヒミュラーの立場を文書にしたためることを求めた。タイヒミュラーはその要求に従い、ボイコットの理由を記した手紙をランダウに送った。

ランダウはナチスが政権を獲得したのちも、情勢を楽観的に捉えていた[7]。しかしこのボイコット事件を契機に、退職願いを上述のタイヒミュラーの書簡とともに州の文部省に提出した。1934年に退職が認められ、ベルリンに移り住んだ。それ以降、彼はオランダやイギリスなど海外で教えることしかできなかった。

このタイヒミュラーの手紙は、教師と学生の権力関係が逆転した当時の大学の「下剋上」的な雰囲気を示すものとして非常に興味深い。本連載でもたびたび触れたように、ハイデガーもまさに同じ時期にフライブルク大学の学長を努めていた。その際、彼の大学でもゲッティンゲン大学と同様、学生たちによる反ユダヤ主義の嵐が吹き荒れていた。ナチスが権力を掌握した直後の大学の状況を知るよすがとして、以下では手紙の内容をかいつまんで紹介したい。

タイヒミュラーは、学生の示威行動は二つの原因をもつだろうと述べている。一つ目は、学生の大部分が属している「精神傾向」が学外において大きな成果を収めたことにより(つまりナチスの政権掌握を指す)、自分たちがこれまで不満を感じつつも不変のものとして受け入れてきた状況が反時代的なものとなったということである(pp. 28-29)。要するに、自分たちが支持するナチスが政権を取った今、ユダヤ人が大学に存在するという不本意な状況も変わらねばならないということである。

二つ目としてタイヒミュラーは、挑発的な行動とまでは言わないにせよ、聴講者の大多数のメンタリティについての理解の欠如に起因する行動が、学生たちの抵抗を引き起こさざるをえなかったことを指摘している(p. 29)。これはランダウが秋学期の授業をあえて行おうとしたことにより、学生たちを不用意に刺激したことを咎めているのである。

回りくどい言い方をしているが、要はナチスが政権を獲得した以上、大学においてもナチズムの原理が貫徹されねばならず、ユダヤ人のランダウは講義をやめるべきだと言っているにすぎない。これに続けて、タイヒミュラーは次のようにも述べている。夏学期にランダウが授業を行わなかったことを自分たちは政治的な出来事の自然な帰結と見なしていた、そのため冬学期ランダウが授業を再開し、「革命」前の状況が再現されたことに驚いた。ランダウが自分たちに対して夏学期と違った態度を取ったのは、もう革命が終わったと判断してのことだと当初は考えた。しかし昨日の対話で理由がそれとは異なることを知った(p. 29)。

ランダウが対話で語ったという理由は手紙には記されていない。私の推測であるが、ランダウはタイヒミュラーとの対話において、自分が授業から遠ざけられる法的根拠が存在しないと主張したのであろう。先ほども述べたように、ランダウは職業官吏再建法の例外規定により免職の対象とはなっていなかったからである。そうだとすると、ボイコットは不法かつ不当な行動だったことになる。

タイヒミュラーはおそらくこうしたランダウの指摘を意識して、手紙では次のように書いている。大学に平穏を取り戻すためには、こうしたボイコットを可能ならしめる状況が存在することを直視し、問題の根本を捉えることが必要である(p. 29)。つまりボイコットの正否は法権利の問題ではなく、政治的、世界観的な観点から評価されるべきだということだろう。要するにユダヤ人が大学で教えていることが問題の淵源であり、それが法的に認められているか否かはどうでもよいということだ

タイヒミュラー曰く、あなたは昨日のボイコットを反ユダヤ主義的な示威行動だと捉えている。しかし自分に限って言うと、あなたに反ユダヤ主義的な行動を取っているつもりはない。そうではなく、「二学期目を迎えるドイツ人の学生たちに、他の点にも最大限の注意を払いつつ、まさに微分積分法について、彼らにとってまったく異人種の教師によって教えられないようにすることが問題であった」。私はあなたが「どの出自であれそれに適した学生に、純粋に国際的‐数学的‐学問的な教育を行う能力」をもつことはみじんも疑わない。しかし自分は次のこともわきまえている。「大学の多くの講義、とりわけ微分積分法も同時に教育的価値をもち、学生たちをある新たな概念世界へと導くだけでなく、別の精神的な態度へと導くものです。しかし各人の精神的な態度は、そこで変化させられるべき彼の精神に依存しており、さらにこの精神は単に現在だけでなくすでに長いあいだ知られていた根本原則〔人種主義を指す〕に従って、本質的に各人の人種的な組成に依存するので、たとえばアーリア人の学生がユダヤ人の教師によって教育されることは一般に望ましくないでしょう。」(p. 29)

個人の精神は人種的な組成に基づいている。つまり人種が違えば、精神のあり方も異なる。したがってアーリア人がそれにふさわしい精神的態度を備えるためには、同じアーリア人によって教えられる必要があるというのである。しかしそもそも、微分積分法はどの人種にとっても共通なものではないだろうか。つまり微分積分法はどの人種に属する教師が教えようが、学生の精神に異なる影響を与えることはないように思われる。

しかしタイヒミュラーにとっては、そうではなかった。「素材を異質の形式において受け取ること」は「精神的な退化をもたらす」。そしてユダヤ人であるランダウが、「数学的な核心」を「固有の民族的な色彩なしに」聴講者に伝えることは不可能である(p. 29)。つまりランダウが微分積分法を教えると、その微分積分法はユダヤ的な色合いをもったものとなるため、アーリア人の学生にはよくない影響を与えるというのである。

興味深いのは、タイヒミュラーはユダヤ人のランダウがアーリア人の学生に対して微分積分法を教えることを拒否しながらも、上級者向けの講義については学生との合意のもとで授業を続けることは許されると述べている点である。彼の理屈では、上級の講義は「すでに存在する精神的態度のうえに積み重ねる形で、応用や認識にとって重要な数学的事実を取り扱う」ものだから、ということになる。タイヒミュラーによると、他の大半の学生はこうした見解を認めておらず、ランダウが講義を行うことはそもそも許されないという立場を取っている。こうした姿勢こそ、タイヒミュラーの見るところ、反ユダヤ主義に由来するものである(p. 30)。

タイヒミュラーはこうした一般の学生の反ユダヤ主義に対して、自分の立場を「親ゲルマン的(progermanisch)」と呼んでいる。しかし究極的には、そうした立場の違いは大した問題ではない。つまり「昨日の行動が反ユダヤ主義的な性格をもつか、それとも親ゲルマン的な性格をもつかという純粋に理論的な問いについて、自分たちは異なる見解をもつものの、われわれは皆、ひとつの目標をもっている」。それは何かというと、夏学期の状態を取り戻すことである。こうしてタイヒミュラーは、ランダウに微分積分法の講義を助手に委ねることを要求する。そう述べたあと、彼は次のような驚くべき傲岸不遜な言葉で手紙を結んでいる。曰く、このことで実際に犠牲を払うのは、若い学生のために仕事が倍増する助手のヴェーバー博士だけであり、あなたは授業を離れねばならないだけで、金銭的その他の不利を被ることはないのだから、自分はあなたに受け入れやすい提案をしていると信じている、と(p. 30)。

以上でタイヒミュラーがランダウに対してボイコットの理由をどのように説明しているのかを見てきた[8]。タイヒミュラーの見方では、ボイコットはドイツの学生を異人種による教育の悪影響から保護するためであり、反ユダヤ主義とは異なるものだった。しかしランダウが授業を許されないのは、結局のところ彼がユダヤ人であること以外の理由はないのだから、タイヒミュラーがどのように言い張ろうと、彼の立場も反ユダヤ主義でしかない。

タイヒミュラーの話が長くなってしまったが、本記事の発端は数学者ネヴァンリンナのナチス関与が近年になって蒸し返されたことであった。ネヴァンリンナの伝記によると、彼が最初に外国に旅行したのはランダウの招聘により1924年にゲッティンゲン大学を訪問したときのことであった[9]。そのとき彼はランダウのほかに、クーラントやヒルベルトなどゲッティンゲンの他の数学者とも交流をもったという。先ほど彼が1936年から一年間、ゲッティンゲン大学で客員教授を務めたことに触れた。このとき彼は自身の前回の訪問以来、ゲッティンゲン大学で何が起こったのかはすべて承知していたはずである。このことをもってただちに、ネヴァンリンナがナチスに共感をもっていたとか、反ユダヤ主義者だったと結論づけるつもりはない。しかし少なくとも、ゲッティンゲン大学の数学研究の栄えある伝統を破壊したユダヤ人排斥を知っていたことは、その後のナチスに対する協力を妨げる要因にはならなかった。このことはナチズムに対する彼のスタンスを示す事実として見過ごせない(彼のより詳細な伝記を読めば、ナチスに対する彼の態度についてはおそらくより具体的な情報が出てくるはずだ)。

ランダウ排斥の急先鋒であったタイヒミュラーも客員として滞在していたネヴァンリンナの講義に出席し、その数学理論の影響を受けたという(p. 8)。タイヒミュラーは間もなくゲッティンゲンを去り、ベルリン大学のルートヴィヒ・ビーベルバッハ(1886-1982)のもとに移り、そこで教授資格の取得を目指した。このビーベルバッハこそ、数学界における反ユダヤ主義運動の中心的人物であった。彼は人種の違いに応じて数学的思考の様式も異なると考え、形式的で抽象的なユダヤ的数学を排し、直観的で具体的な「ドイツ的数学」を促進することを唱えた。このドイツ的数学を振興するためにビーベルバッハが1936年に刊行した雑誌が『ドイツ的数学』である[10]

この雑誌にはタイヒミュラーも彼の代表作となる論文を寄稿している。しかしタイヒミュラーはビーベルバッハの「ドイツ的数学」という考え方には必ずしも賛同していなかった。タイヒミュラーも人種が数学的思考に与える影響をまったく認めないわけではなかった。しかしそれよりもナチ・イデオロギーを数学者のあいだに浸透させ、数学界をナチズムの信奉者によって支配することを重視していた(pp. 8-9)。タイヒミュラーはランダウ宛ての書簡で、微分積分法をユダヤ人がドイツ人に教授することはドイツ人の精神的態度に悪い影響を与えると述べていたように、人種が数学的思考に与える影響を認めている。しかし他方で、彼はランダウが上級の学生に対して数学の教育を続行することは認めていた。思想的な一貫性がないと言えばそれまでだが、彼は数学的思考様式と人種の不可分性をビーベルバッハほど教条的に捉えていたわけではないのである。

このように大学における反ユダヤ主義と言っても、その捉え方は人によってそれぞれ異なっていた。ビーベルバッハのように、また物理学でも「ドイツ的物理学」[11]を唱えていた一派のように、人種の違いが学問の様式にも違いをもたらすという考えに基づいて、ドイツ的ないしはアーリア的学問を振興し、ユダヤ的学問を排斥しようとする人びとがいた。それに対して、そのような学問の人種的な類型論には依拠せずに、大学からユダヤ人の学者を排除することのみを目指す人びともいた。

ただどちらの立場を取るにしても、ユダヤ人は大学から排除されるべきだという結論には変わりがなかった。その意味で、反ユダヤ主義の内部における立場の違いは、大して重要なものではなかったと見なしうるだろう。

以上で見たように、ナチ体制下の大学における反ユダヤ主義は独特の仕方で学問論と絡み合っていた。もちろん学問はユダヤ的であるとかないとかといった問題とは無関係だという考え方もありうるだろう。しかし当時の言論状況においては、そうした考え方そのものが「リベラル」で、ユダヤ的な学問を是認する態度だとして迫害の対象となった。結局、当時はどのような学問論的立場を取ろうと、反ユダヤ主義に対する態度決定であることを免れなかったのである。

本連載でもたびたび触れた、ハイデガーの「黒いノート」における「ユダヤ的なもの」への言及も、以上で見たような同時代の言論状況を念頭においてなされたものである。ユダヤ的だと非難されるリベラルな学問であれ、それを克服すると自認するドイツ的数学やドイツ的物理学であれ、近代形而上学の枠内にとどまるものでしかなく、その意味で本質上、違いがないというのがハイデガーの基本的立場であった。リベラルな学問をユダヤ的だと貶めるのであれば、そう非難する学者が唱えるドイツ的学問もユダヤ的なものでしかないという皮肉が、ハイデガーの「ユダヤ的なもの」をめぐる言説の趣旨である。そうだとすると、彼自身はいったいどのような学問を目指していたのであろうか。この点については紙幅が足りないので、またの機会に論じることにしたい。


[1] Pajunen, Jussi; Karjalainen, Mikko, “Finnish Volunteer Battalion of the Waffen SS in 1941–1943 and Related Finnish studies”: in Finno-German Yearbook of Political Economy. Vol. 2, 2019, p. 22.

[2] Ibid., p.22.

[3] https://mathshistory.st-andrews.ac.uk/Biographies/Nevanlinna/ (『マックチューター』の数学者伝記「ロルフ・ネヴァンリンナ」の項)

[4] A.D.バイエルヘン『ヒトラー政権と科学者たち』常石敬一訳、岩波現代選書、1980年、第2章を参照。

[5] 同上、34頁以下。

[6] Schappacher, N., Scholz, E. (Hrsg.): Oswald Teichmüller – Leben und Werk, in: Jahres-bericht DMV 94, 1992, S. 5. 『ドイツ数学者協会年報』に掲載されたこのタイヒミュラーの伝記には、付録としてタイヒミュラーがランダウに宛てた手紙も収録されている。以下、本論考を参照する場合は、参照箇所のページ数のみを本文中に記載する。

[7] A.D.バイエルヘン『ヒトラー政権と科学者たち』、45頁以下。

[8] なおボイコット事件が起きたゲッティンゲン大学は、本連載の第4~7回で取り上げたエドゥアルト・バウムガルテンが所属していた大学である。バウムガルテンはナチスの政権獲得後、ただちに同大学の突撃隊とナチ教官同盟への加入を志望した。ナチ教官同盟の指導者はハイデガーにバウムガルテンの学問的能力と政治的適性を照会した。ハイデガーが所見でバウムガルテンとユダヤ人との関係性を指摘し、ナチズムのイデオロギーに対する不適合性をにおわせた。ナチス・ドイツの崩壊後、ハイデガーはこの所見のために反ユダヤ主義者だとして厳しい処分を受けることになった。それとは対照的に、バウムガルテンはハイデガーの悪意の所見によって追い落とされかけた被害者として捉えられ、彼自身のナチ加担はほとんど問題視されなかった。しかしバウムガルテンが突撃隊への加入を志願したのは、ゲッティンゲン大学で「強制的同質化」が遂行され、ユダヤ人教官が多数、職を失っている最中であった。彼は自分が何に与しようとしているのか、はっきりわかっていたはずである。彼が反ユダヤ主義に積極的に加担することを苦とするタイプでなかったことは明らかである。

[9] https://mathshistory.st-andrews.ac.uk/Biographies/Nevanlinna/

[10] https://mathshistory.st-andrews.ac.uk/Biographies/Bieberbach/ (『マックチューター』の数学者伝記「ルートヴィヒ・ビーベルバッハ」の項)

[11] ノーベル物理学賞を受賞したフィリップ・レーナルトとヨハンネス・シュタルクが中心となって提唱した。彼らはアインシュタインの相対性理論を典型とする抽象的・数学的な理論に基づく物理学をユダヤ的なものとして排し、実験や観測に基づく物理学をドイツ的物理学として振興しようとした。これはもちろん反ユダヤ主義を動機としていた。しかし他方で、物理学界において相対性理論や量子力学がまだ完全には受け入れておらず、そうした中で、それらに反対する学者たちが学界で主導権を握ろうとする権力闘争という側面もあった。詳しくは以下を参照されたい。A.D.バイエルヘン『ヒトラー政権と科学者たち』、第5~8章。


轟 孝夫 経歴

1968年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
現在、防衛大学校人文社会科学群人間文化学科教授。
専門はハイデガー哲学、現象学、近代日本哲学。
著書に『存在と共同—ハイデガー哲学の構造と展開』(法政大学出版局、2007)『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書、2017)『ハイデガーの超‐政治—ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い』(明石書店、2020)、『ハイデガーの哲学—『存在と時間』から後期の思索まで』(講談社現代新書、2023)などがある。

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